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「バスジャック事件が教えたもの」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月15日(火)19時28分5秒
返信・引用
  ちょっと長文です。
最後までお読み下さい。

(↓本文ここからです↓)

12年前に起きた17歳の少年によるバスジャック事件。
そのバスに同乗していた山口由美子さんは、
加害少年によって十数か所もの刺し傷を負われました。
その山口さんはいま、子供たちが安心して過ごせる
「居場所」づくりに尽力されています。

自らに起きた災いを受け止め、よき社会づくりへ
転換しようと努める山口さんの生き方をご紹介します。
──────────────────
「バスジャック事件が教えたもの」

山口由美子(不登校を考える親の会「ほっとケーキ」代表)
『致知』2009年5月号 特集「執念」より
──────────────────
2000年のゴールデンウイークの5月3日、
私は塚本達子先生と一緒にバスに乗っていました。

塚本先生は佐賀市内で幼児教育の教室を主宰され、
我が家の子どもたちがお世話になった先生です。

子どもたちは小学校に入る時点で
先生の教室は卒業しましたが、
人生に関する多くを学ばせていただいた私自身が
先生から卒業できず、交流を続けていました。

この日は一緒に福岡にクラシックのコンサートを
聴きにいく予定でした。

バスが高速に入ってしばらくすると、
一番前の座席に座っていた少年が突然立ち上がり、
牛刀を振りかざしてこう言いました。

「このバスを乗っ取る。
  全員荷物を置いて後ろへ下がれ」

最初、私はこの少年が本気でバスを乗っ取ろうと
しているとは思いませんでした。
声にすごみはなく、まだ中学生くらいの
あどけない少年だったからです。


「何を言っているんでしょうね」

という感じで先生を見たら、意外にも大変驚いた様子で
固まっていらっしゃいました。
多くの子どもたちと接し、度胸もあって
信仰心も篤い先生は、こんなことで
たじろぐような方ではないのに……。


乗客は少年の言うことに従い、後部座席へ移動しました。
その時、1人だけ眠っていて
事態に気づいていない方がいました。

「おまえは俺の言うことを聞いていない!」

少年は逆上し、その人の首を刺したのです。
その時初めてこの子は本気なのだと気づきました。

しばらくすると、乗客の1人が

「トイレに行きたい」

と言い出し、少年はそれに応じて、
バスは道路の路肩に止まりました。
その方は1人で降りていかれましたが、
おそらく通報されたのでしょう、
バスの前に乗用車が何台か止まり始めました。

気づいた少年はさらに逆上し、

「あいつは裏切った。これは連帯責任です」

と言いながら、一番近くに座っていた私の顔を
牛刀で切りつけました。

とっさに両手で顔を覆うと、今度は手を切られ、
次は首、次は……。何か所刺されたかは分かりません。
あちこちを切りつけられ、
私は通路へ転がり落ちてしまいました。

しかし、その時私はこう思ったのです。

ああ、彼の心は、この私の傷と同じくらいに
傷ついていたのだ。
そんな少年を殺人者にするわけにはいかない――。


なぜ、そんな思いが湧いてきたのか、
それはいまだに私にも分かりません。
しかし、その思いが私の命を守ったのだと感じています。

  * *

バスはどのくらい走ったのでしょうか。
うっすらとしか意識がないまま床に座り込み、
傷の浅かった右手で体を支え、
左手は心臓より高い位置にと思って
ひじ掛けに置いていました。

そうして数時間が経過した頃です。
バスの速度が落ちたのを見計らって、
2人の乗客が窓から飛び降りました。

すると少年は「連帯責任」という意味なのでしょう、
塚本先生を2回刺しました。

倒れ落ちる先生を見ながら、私は直感的に
「突っ伏したら死んでしまう」と思いました。

「先生、起きて!」と心の中で何度も叫びましたが、
自分の体もままならず、
どうすることもできませんでした。

広島に入り、パーキングエリアでバスは止まりました。
少年と警察とのやり取りが続いていましたが、
詳しくは分かりません。

しかし、怪我をしているということで
私は他の乗客の方よりも先に窓から救出されました。

助かった――。

その瞬間はそれしか思い浮かびませんでした。
極度の緊張感から解き放たれた私は
他の乗客の皆さんのことにも、
一緒にいた塚本先生のことにも思いが至りませんでした。

痛い、つらい、怖い、
そういうすべての感情が固まって押し寄せ、
訳が分からない状態です。

搬送される救急車の中で

「もう1人の方はダメだったみたいだなあ」

と職員同士の会話を聞いた時、

「そうか。塚本先生は亡くなったんだ……」

と、情報だけが体の中を通り過ぎていきました。


塚本先生との出会いは、一番上の息子が
4歳の時にさかのぼります。
小学校の教員だった先生は、偏差値教育や受験戦争など
現代の学校教育のあり方に疑問を感じて退職。

独自に幼児教室を主宰され、
「この世に生まれて初めて出会う教師は母親である」
という考えから、子どもたちとお母さんのための教育に
専心しておられました。

先生は常々

「子どもは自ら育つ力を持って生まれてくる。
 大人はそれを援助するだけでいい」

とおっしゃっていましたが、
この教えが私の子育ての指針となり、
特に娘が不登校に苦しんでいた時代には
大きな支えになりました。

娘は小学校の時に不登校となり、
その後は通えたものの、
中学に入るとまた行けなくなってしまいました。

一番苦しいのは娘だと分かってはいるものの、
周囲から子育てが悪かったからこうなったと思われたり、
この子の将来はどうなるんだろうと不安になったりと、
親として娘を受け入れられない時期もありました。
しかし、

「子どもには自ら育つ力がある。
 大人はそれを援助するだけ」

という塚本先生の教えがあったからこそ、
娘が自分で立ち上がるまで待つことが
できたのではないかと思うのです。

  * *

事件から1か月半、私は広島の病院に入院し、
治療とリハビリに励みました。

結局、私は少年によって10数か所刺され、
場所によっては、あと少し傷が深かったら
死んでいたかもしれないとお医者様は言いました。

私自身、もしも床に倒れていたら、
間違いなく出血多量で死んでいたと思っています。
それゆえ、事件の直後は体のあちこちが
張り裂けるように痛く、あまりのきつさに、
いっそあの時死んでいればよかったと思うほどでした。

時間がたつにつれ、少しずつ加害少年の素性は
私にも伝えられました。
少年は娘と同じ17歳、高校は不登校の末、退学……。

「ああ、彼も苦しんでいたんだ」と思いました。

バスの中で、少年が最初に逆上して言ったあの
「俺の話を聞いていない!」という言葉。
きっと彼は十七年間、ずっと心の中で
「話を聞いてほしい」と訴えていたのでしょう。

しかし、それに耳を傾けなかった周囲の大人たち。
少年は事件によって加害者になりましたが、
それまではずっと大人社会の被害者だったのだと感じたのです。

………………………………………………
その後、山口さんは「彼にも居場所があったら、
こんなことにはならなかったかもしれないね」という
友人の言葉を聞いて、小学校に通えない子供や、
成人して引きこもってしまった人などのために、
親子の居場所づくりを目指す会を立ち上げられます。
………………………………………………
死後、塚本先生は私やご遺族に
1つの言葉を残されました。


「たとえ刃で刺されても恨むな。
 恨みは我が身をも焦がす」

これは事故の直後に、先生のご子息が
「母の財布に入っていたおみくじの言葉です」と言って
教えてくれたものでした。


「母は遺された者たちの心のありようまで
 示唆して逝ってくれました」

とおっしゃった時、あの日の先生の驚いた様子を思い出し、
もしかしたら先生はきょうここで、
ご自分の命が尽きることを察知したのかもしれない。
そう思いました。

少年によって深い傷を負い、
いまも傷あとや後遺症が残る私が、
恨むどころか、少年のほうが被害者だと主張するのを聞いて、
「山口さんは強い」とおっしゃる方もいます。

しかし「恨みは我が身をも焦がす」という言葉を思うと、
実は私は楽な生き方を選んだのではないかと思うのです。
 そして、すべての出来事には意味がある。
事件もまた、私にとっては必要な出来事だったと受け止めています。

http:// 

 

「人生の大則」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月15日(火)08時21分58秒
返信・引用
  致知出版社藤尾秀昭編集長の言葉を紹介します。

(↓ここから本文です↓)

「人生の大則」

  このほど『二宮尊徳一日一言』『修身教授録一日一言』が上梓(じょうし)された。一日一言シリーズはこれで六巻になる。
  六人の先哲の語録編纂(へんさん)を終えて、しみじみ湧き上がってくる感興(かんきょう)がある。六人の人生の達人の言葉は、煎じ詰めれば一に帰するという思いである。その一とは何か。それは、
    花は香り
    人は人柄
  ということである。見た目にいくら華やかで艶(つや)やかでも、造花には真に人を引きつける魅力はない。人もまたいくら実力があっても、傲慢(ごうまん)で鼻持ちならない人に人間的魅力はない。

  まず自分を創ること。自分という人間を立派に仕上げること。そして、徳の香る人になること----六人の先哲がその生涯を通して語っていることはその一点に凝縮される。これこそ人生で一番大事な法則、これを遵守(じゅんしゅ)すれば人生は大丈夫という原則、すなわち人生の大則であろう。
  では、どうすれば自分を創ることができるのか。六人の先哲の言っていることは、概(おおむ)ね次の三つに集約されると思う。

  一つは、人生に対して覚悟を決めること。覚悟を決めない限り、真の人生は始まらない。先哲は繰り返しこのことを説いている。
  沖縄の漁師が言ったという。
「遠洋の漁場に出ようと決めると、風が起き、帆がざわめき、波が立ってくる。だが、まだ覚悟が決まらない船には風が起きんのよ」
  人生もまた然(しか)りである。
  二つは、傲慢になるな、謙敬(謙虚で、敬い慎むこと)であれ、と教える。不遇の時には謙虚だった人が、うまくいきだすと傲慢になる。人間の通弊(つうへい)である。だが、傲慢になった時、天はその人の足をすくう。その事例は数限りない。
  三つは、誠実であれ、ということ。誠実は古来聖賢がもっとも大事にした人間最高の徳目である。
  あえてもう一つ加えれば、「久」であろう。久しく続けることで、人生の大則は揺るぎないものになる。

  最後に、二宮尊徳の道歌を紹介したい。

    父母(ちちはは)もその父母(ちちはは)もわが身なり  われを愛せよ我を敬せよ

  あなたの命はあなた一人のものではない。父母(ちちはは)、その父母(ちちはは)と幾世代にもわたり、連綿と続いてきた命。その命の炎が一度も途切れることなく続いてきたからこそ、あなたの命がある。あなたの身体の中には幾百万、幾千万という先祖の連綿たる命の炎が燃えている。
  そういう尊い命の結晶が自分であることに深い思いをはせ、自分を愛し、自分を敬うような生き方をしなければならない。

  私たちが決して忘れてはならない人生の大則がここにある。


人間学誌月刊『致知』  藤尾秀昭編集長の言葉より
平成19年(2007)10月号に掲載されたものです。

http:// 

 

「生きているからには」 宗教詩人:坂村 真民

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月 9日(水)19時20分47秒
返信・引用
   生きているからには
 しょぼしょぼとした
 目なんかせず
 生き生きした
 魚の目のように
 いつも光っていようではないか

 生きているからには
 くよくよした
 泣きごとなんか言わず
 春の鳥のように
 空に向かって
 明るい歌をうたおうではないか

 生きているからには
 できるだけ世のため人のため
 体を使い
 あの世へ行った時
 後悔しないように
 発憤努力しようではないか

  『坂村真民一日一言』より(致知出版社刊)

http:// 

 

「岡潔先生から学んだこと」 占部賢志(中村学園大学教授)

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月 8日(火)19時46分25秒
返信・引用
  謹厳実直の印象がありました数学者岡潔さんの素顔にせまる話です。

(ここから本文です)

本日は現在発行中の『致知』6月号より、
「語り継ぎたい美しい日本人の物語」を好評連載中の
占部賢志氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
「岡潔先生から学んだこと」

 占部賢志(中村学園大学教授)

 『致知』2012年6月号
  連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」より
────────────────────────────────────
岡潔(おか・きよし)先生は、なつかしさの感情が
日本民族にとっていかに大切なものか、
心魂を込めて説いてやまなかった方でもあります。

ある時はこんなふうに言われました。

「ともになつかしむことのできる
 共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、
 たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか」

(『春宵十話』)


この「なつかしさ」については、印象深い思い出があります。

時は昭和四十七年、筆者が大学一年生の時です。
博多で開かれていた市民大学講座に岡潔先生がお見えになり、
特別講演をされたのです。

登壇された先生の白髪痩躯(はくはつそうく)の姿を
目の当たりにして息を呑みました。
隆々とした白い眉も印象に焼き付いています。

椅子にお座りになって講演を始められると、
何やらポケットから出される。
一本の煙草でした。

これを両手でいじりながら話が進む。
机の上には中身がこぼれ落ち、
先生は時々それを手のひらで掬われるのです。

演題は「日本人と『情』」というもので、
日本的情緒の恢復(かいふく)を語った珠玉の講演でした。
まず、自分とは何かが分からなければ
何事も始まらないと先生はおっしゃる。

そして、こう断言されたのです。


「日本人は情を自分だと思っている民族です。
 だから、どんなに知的に納得しても、
 情が納得しなければ本当には納得しないのです。

 いいこともいけないことも、情に照らせば分かる。
 これが日本人の道徳です」


こんなことを聞いたのは勿論初めてです。
偉大な数学者が知ではなく
「情」が大切だと言うのですから、びっくりしました。

それだけに、この時の印象は今も鮮やかに胸に刻まれています。


「日本の古典をお読みなさい」


独特の淡々とした口調で、いよいよ話は佳境に入る。
人には表層意識と深層意識の2つがあり、
日本人は本来、深層意識が基調となっていたはずだが、
今は表層意識が中心になってしまったとの指摘でした。

先生によれば、「なつかしい」という感情は
深層意識から生まれたものだそうです。

たしかに西洋人も「なつかしい」とは言うが、
過ぎた昔がなつかしいという意味で使うに過ぎません。
しかし、日本人は違うのだと言って、
次のような例を挙げられたのです。


「たとえば芭蕉に、秋深し隣は何をする人ぞ、
 という句があります。
 あれは隣の人を知らないから、なおさらなつかしい、
 そういうふうに使っているのです。

 ところが今、この日本人本来のなつかしさの感情が
 衰えてしまったのではありませんか」


旅先で襖一枚隔てた見ず知らずの他人、
そこに寂寥感を覚えるのかと思えばさにあらず、
むしろなつかしさを感じるのだとおっしゃるから、またまた驚きでした。

じつはこの時、筆者は少し考え込まざるを得ませんでした。
先生が強調される、「なつかしさ」の感情を
捨て去るような少年期を送って来ていたからです。

小中学校時代、父の仕事の関係でほぼ一年に一校ずつ、
西日本各地を転校しましたから、
なつかしさの元とも言える故郷は筆者にはありませんでした。

そこで、質疑応答の時間に思い切って手を挙げ、
どうしたらなつかしい感情が磨けるのか、質問に及んだのです。
先生は言下にこう応じられました。


「君にもなつかしさを育てる道はあります。
 日本の古典があるでしょう。その古典が君のふるさとです。
 古典をお読みなさい。
 そうすればきっと、なつかしさとはどういうものか分かります」

http:// 

 

「伊藤牛舎の牛」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月 4日(金)11時08分33秒
返信・引用
  安曇野市穂高有明地籍にて肉牛を飼育している伊藤雅敏さんの牛舎の牛です。
伊藤さんのところでは小売もしています。
安曇野散策の折にはお立ち寄りして美味しい肉をご購入ください。

因みに伊藤牛舎の地番は次の通りです。

〒399-8301
安曇野市穂高有明2963
電話 (0263)83-2478

http:// 

 

「古の神社が教えるもの」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 5月 3日(木)14時26分25秒
返信・引用
  忘れ去られた福島県海岸近くのの被災地の神社でみたもの。
日本人のDNAのなせるものか。

(↓ここから本文です↓)

本日は現在発行中の『致知』6月号より、
東日本大震災以降、津波の被害を免れた東北地方沿岸一帯の
神社の調査をされた海洋プランニングの
熊谷航氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
「古の神社が教えるもの」

 熊谷航(海洋プランニング)
『致知』2012年6月号
  特集「復興への道」より
────────────────────────────────────
震災以降は、仕事で北は北上川から南は阿武隈川まで
河口付近の被災状況の調査を一とおり行って、
夏くらいから東北地方一帯の近海を測量して回りました。

ですから僕は海側から被災地を全部見たことになりますね。
その時に神社が残っているな、ということに気づいたんです。


【記者:それがきっかけで本格的に神社について調べられたのですか?】


きっかけは確かにそうなのですが、
実際に調査に乗り出すには別に動機があったんですよ。

復興に関して震災直後から様々なことがいわれてきましたが、
政治家や大学の先生方の発言とか、
なんとか会議で話し合われたりする内容を聞いていても、
どうも違和感があったんですよね。
僕ら地元の住民は蚊帳の外だよねって。

この土地に住んだこともない人たちが、
復興だ、復興だっていろんなことを決めていき、
僕らはその決定過程にまったく入る余地がない。
このことが非常に歯がゆかったんです。

それからもう一つ。

震災後1週間くらいで津波の被害調査が始まって、
続々と被害状況が明らかになっていきましたが、
福島県だけがポコーンと空白のままでした。

【記者:原発事故の影響ですね】

いろんな研究者が調査に乗り出してくるんだけど、
福島県には誰もこない。

南三陸町とか陸前高田市の被害も確かに凄かったけど、
こっちも大変なことになっていたんですよ。

そうしたら大学時代の恩師から連絡が入って、
「他の連中は皆へっぴり腰だから、おまえがやってみたらどうだ」
と背中を押されましてね。

それじゃっていうことで、友人たちの力を借りながら
主に休日を使って被災地域を回り始めたんです。

【記者:会社の仕事として始められたわけではないのですね】

そう、だからお金はあまりかけられません(笑)。
早速調査に乗り出したわけですが、
海から見えていた神社にもいくつか立ち寄りました。
そうしたら思いがけない光景に出合って、
神社に対する認識がガラッと変わったんですよ。

南相馬市原町区を訪れた時のことです。

あたり一帯は多くの家が流され、
瓦礫の山がいくつもできていたのですが、
そこにポツンと残っていたのが照崎神社でした。

それ自体にもとても感動したのですが、
それ以上に感激したのは、
境内が綺麗に掃き清められていたことなんです。

神社そのものは無事でも、海水は当然境内にまで来ていて、
瓦礫などが散乱していたはずなんですよ。
それが見事に片づけられている。

他にもそのような神社があったのですが、
周囲の住民は避難されているから、
最初は誰がやられたのか分かりませんでした。

後で分かったんですけど、当時は行方不明の身内を捜索しに、
避難先から一時的に戻ってこられる人がたくさんいたんですよ。
自衛隊や警察の方だけでは全然手が足りていませんでしたから。
その方々が捜索の合間に掃除をされていたんです。

【記者:不思議ですね】

僕はこの時に思いました。

各地に避難された方々が再びこの地に戻ってくるためには、
コンビニやら病院など生活に必要なものも確かに大事だけど、
地域の暮らしに根づく神社の存在を忘れてはいけないなと。

東北大学の津波工学が専門の今村文彦先生とお話しする機会があって、
神社のことで意気投合し、調査にあたっては
いろいろと協力していただくことになったのも大きかったですね。

そんなことが重なって、
じゃ神社だけに絞って調べようということになりました。


※神社調査を経て見えてきた日本民族の歴史や、
 神社が現代人に語りかけるものとは何か?
 詳しくは『致知』6月号をご覧ください。

http:// 

 

松本のここが自慢!ベスト10

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月30日(月)14時33分48秒
返信・引用
  新まつもと物語のサイトにあるものです。
松本の今を知ることができるサイトです。
下記からどうぞ。

http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/citizensweblog/?page_id=871

http:// 

 

「ぜんざいには塩がいる」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月29日(日)10時45分16秒
返信・引用
  また一つ学ぶことができました。

(↓ここから本文です↓)

本日は『致知』5月号「致知随想」より、
滋賀県大津市の社会福祉法人真愛会理事長・
及川眞さんのお話をご紹介します。

ぜひ最後までお読みください。
────────────────────────────────────
■「致知随想」ベストセレクション
────────────────────────────────────
「ぜんざいには塩がいる」

 及川眞(社会福祉法人真愛会理事長)

『致知』2012年5月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
────────────────────────────────────
昭和二十三年、私は同志社大学で戦後初めて
「部落問題」をテーマにした卒業論文を提出した。
そのこともあり、就職にあたり京都市等からも誘いをいただいたが、
私の居住する滋賀県の県庁に入ることになった。

当然、社会福祉の仕事に据えていただけるものと思っていたが、
配属されたのが税務課。

当時は税金の徴収を激しく行っていた頃で、
少額と思われる県民税が払えぬために
差し押さえられた貧しい家々の物件を
引き上げなければならなかった。

泣き叫ぶ家人の声を背に受けながら、
差し押さえた家具等をトラックへ積み込みをする時、
近隣住民は私たち職員を取り囲み、
「鬼、帰れっ」などと罵倒し、
小学生からは石を投げつけられたこともあった。

就職から一週間目にして
「こんな仕事、とても続けられません。もう辞めます」
と大学の主任教授・竹中勝男先生に報告に行った私に、
先生は

「君はこれから福祉の世界で生きていく人間だ。
 そこで使われるお金がどういう思いの中で
 集めてこられたお金かを知っておくことは、
 必ず将来のプラスになる。

 だから死ぬ思いをしてでも税金の仕事をやりなさい」

と言われた。この一言でどうにか思いとどまることができたが、
いま振り返れば非常に恵まれた出発点であったと思う。

やがて地方事務所で同和事業と児童福祉を
担当することになった私は、
県下初となる部落対策協議会の支部を滋賀郡につくったが、
そうした活動は当時、同じ行政内部にすら
非常に冷たい目で見られていた。

私は三十四歳の時に児童相談所勤務となったが、
そこで突き当たったのが障がい児の問題である。

当時、重度障がいの子を持つ家庭では、
人目に触れないようひっそりと暮らしているケースがまだあった。
その家庭を一軒一軒回ったが、いくら私が慰め励ましても、
踏み越えられない境界線がある。

障がい児を持つ親の苦しみは
その立場にならないとなかなか理解し難いものなのである。

私は「知的障がい児教育の先駆者」といわれた
田村一二先生にも相談し、これは親同士が励まし合い、
支え合わなければ駄目だと考え、
管内に「手をつなぐ親の会」をつくり始めた。

世間を気にして参加を拒む家もあったが、
湖西地域の堅田町、志賀町、高島郡では
一村を除く全町村に会が発足。
その動きが県全域へと広がっていった。

一方、親の会を運営する中で、
大変な苦労をして育てた我が子を
障がい児施設へと預ける時の、
親の深い悲しみを感じとった。

皆さんのために自分ができることはなんだろうと考え、
大津市内につくったのが真愛保育園だった。
その根底にあったのは
「どの子にも保育の機会が与えられる」という視点と、
「障がいのある子どもたちが障がいのない子どもたちを教育する」
という視点であった。

昭和四十二年の開園以来、延べ百五十名以上の
障がいのある子どもを預かりながら保育を行ってきた。

障がいのある子どもが障がいのない
子どもたちと楽しそうに遊んでいる姿を見て、
障がい児を預かる保育園が近隣にも現れ始めた。

その動きが大津から滋賀、
滋賀から全国へと広まっていったのである。

そしてこの障がい児保育は、
私たち職員や園児たちにも思いがけない力を与えてくれた。
私たちは障がい児と触れ合うことで、
純粋な気持ちや、優しさ、温かさといったものを
いただくことができた。

田村一二先生はそれを「障がい児の教育力」と表現し、
障がいのある子が障がいのない子を
変革させる力を持つと説いておられた。

先生は生前

「人間、差あって別なし」

とよく言われた。
勉強のできる人間とできない人間、
障がいのある人とない人といったように、
それぞれに「差」はあるが、人間としての「別」はない。

当園の応接室には

「ぜんざいには塩がいる」

という田村先生の言葉が飾ってあるが、
これは四十年間保育園を運営してきた中で
私自身がつくづく実感することでもある。


「ぜんざいをつくるのには砂糖がいる、
 しかし砂糖だけではほんとうにうまいぜんざいはできない。
 砂糖の逆の塩がいる。

 砂糖を健常者とすると、塩は障がい者、
 塩はからいから駄目だと鍋の外へ放り出しては、
 ぜんざいはできない。

 塩を抱き込み溶かし込んだ時、
 このぜんざいは、つまり社会は本物の味になる」


これは先生の著書『賢者モ来タリテ遊ブベシ』にある一節だが、
料理は少量の薬味や隠し味があることによって、
元の材料がより生かされることがある。

少量だからといって切り捨ててしまうのではなく、
用い方によっては全体を変革してしまうほどの力を持つのである。

当園では最近、増加傾向にある小・中学校の不登校児に
保育園の場を提供し、保育ボランティア体験を通して
心の変革を図る試みも行い成功している。

現代社会が不信感に満ち、
急激に変貌する社会であればあるほど、
障がい児や乳幼児が持つ「教育力」を守り、
育てていかなければならないと切に感じている。

http:// 

 

特攻兵・上原良二の『恋文』

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月28日(土)19時46分38秒
返信・引用 編集済
  ある雑誌にて紹介されていた『恋文』です。


特攻兵・上原良司(安曇野穂高出身の学徒出征兵)から
幼馴染みの石川冾子へ

『世紀のラブレター』
梯(かけはし)久美子著/新潮新書
定価714円

きょうこちゃん さようなら ぼくはきみがすきだった
しかしそのとき すでにきみは こんやくのひとであった
わたしはくるしんだ そしてきみのこうフクをかんがえたとき
あいのことばをささやくことをだンネンした
しかし わたしはいつもきみを あいしている



 届かなくても残さずにいられない。
 暗号に秘められた愛の言葉たち。

(補足)
「きょうこちゃん」と呼ぶ幼なじみの石川冾子に恋心を抱いていた特攻兵・上原良司。
その冾子が父の部下と結婚することを知るも、自分は死を覚悟した特攻兵のため
告白は思いとどまっていた。それなのに、彼女が結核で死んだことを知る。
その死から1年後、天国で彼女に会えることを信じ、彼は知覧基地から沖縄へ向け出撃した。
この手紙は彼の死後見つかった愛読書の〇で囲った文字をたどり浮かび上がる、
せつない恋文である。

http:// 

 

この世に生をうけてから24107日目

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月28日(土)11時02分12秒
返信・引用
  今日は私の誕生日です。
ちょうど満66歳になりました。
以前この投稿欄にて紹介しました「うまれてから何日たったのかな」
http://www.110kz.com/001/)サイトで調べてみました。

この世に生をうけてから満66歳で24107日たっていました。
ここまできたら30000日まで永らえたいと思い調べてみました。
25000日目は2014年(平成26年)10月 8日。
30000日目は2028年(平成40年) 6月16日。
丈夫な(!?)身体に産んでくれた母と父に感謝です。
家族特に妻には感謝の氣持ちをしっかり伝えたい。

http:// 

 

「満タン給油を自信を持ってお勧めする理由

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月25日(水)13時55分57秒
返信・引用
  垣見裕司様(垣見石油代表取締役専務)のホームページに書かれている話です。

(↓ここから本文です↓)

満タン給油を自信を持ってお勧めする理由。
半分と満タンと燃費はどのくらい違うのか

この問題をトヨタの技術の方にお伺いしたところ非常に明確な答えが返ってきました。

エンジンが同じで車体重量が増えた時の燃費感度は0.5(加速感度は1)。すなわち
      1トンの車が100kg増加した時の燃費悪化は 5%
      2トンの車が100kg増加した時の燃費悪化は2.5%となるのそうです。
別の言い方をすれば、
燃費は車両重量に反比例、すなわち重量が倍になれば、燃費は半分になるようです。

では車両重量が1000kg、燃費20km/L車で満タン40Lと半分の20Lで比較します。
20Lの重量差はガソリンの比重を0.75とし、15kgの差で算出します。

ガソリンタンクに半分ガソリンが入った車体重量を1000kg、満タンで1015kgとすると
 1.5%の増加なので、その半分の0.75%燃費が悪くなるとします。 式は、
20km/L x(100%-0.75%)=20km/L x 99.25% = 19.85km/Lとなります。
月間1000km走るとしたら 1000km ÷ 20km/L=  50L  150円 で 7500円
一方満タン車は、     1000km ÷ 19.85km/L=50.38L 150円 で 7557円。
従って月間1000kmを走ったとしても、増えるガソリンの使用量は、僅か0.38L。
単価150円としても 僅か57円の差です。
SSには、倍以上の頻度で行かなくてはいけないことだけを考えても、またいつか来ると
言われている東海、東南海、南海、首都直下型地震等を考えれば、津波がなければ
車は最後の個別避難所ですから、絶対に満タン給油をお勧めしたいと思います。

http:// 

 

「本田宗一郎の創業者魂」 (城山三郎:作家)

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月24日(火)19時26分43秒
返信・引用
  ●「二十世紀の聖女」 マザー・テレサ

在りし日のマザー・テレサが過ごした最後の十二年半、
日印を何度も行き来する中で、親交を深めてこられた五十嵐薫氏。

マザー帰天後も、その精神を継ぎたいと、インドを中心に活動を続ける氏に、
その位に素して行い続けたマザーの生き方と
その偽らざる素顔について語っていただいた。
 http://www.chichi.co.jp/feature/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
本日は『致知』1986年8月号より、
伝記作家として、多くの創業者たちへのインタビューを
行ってこられた城山三郎氏のお話をご紹介します。
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「本田宗一郎の創業者魂」

  城山三郎(作家)
『致知』1986年8月号 特集「開拓し、築く」より
────────────────────────────────────
本田宗一郎さんに、あなたがやってきたことは究極のところ、
なになのか、とうかがったことがあるんです。

するとお答えは、絶えず洪水を起こしてきたことだ、
ということでした。


ある時期、資本金の何倍もの投資をして、欧米の一級の機械を、
設備した。

欧米に追いつき追い越すのが、日本の課題だったころです。
しかし、その機械設備を仕様書どおりに使っていては、
追いつくことはできても、追い抜くことはできない。
で、仕様書以上の使い方をする。

すると、当然壊れるわけです。
そこで壊れないように改善する。

こうして機械がもつ十の機能を十五にして使うことを可能にした。
技術力が飛躍的に向上した。

資本金の何倍も投資することも洪水なら、
そうして設備した機械に仕様書以上の機能を
もたせる使い方をするのも洪水です。

合理的に判断したら、こういうことは出てこない。


洪水には肥沃な土壌をもたらすというプラス面もあるわけだが、
半面には洪水の被害をもたらすというマイナス面も大きいので、
マイナス面だけに捉われやすい。
そういう人は事業を起こしても、あまり伸びませんね。

そうではなく、マイナス面も十分に承知している。
そのマイナス面の痛みを引きずりながら、
それでも洪水を起こすことに賭けていく。

そういう視野の広さ、懐の深さが創業者といわれる人にはあって、
それが人間的な魅力になっていますね。
本田宗一郎さんにはそれがある。

http:// 

 

「保育の神様とひとりの少年」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月22日(日)09時02分0秒
返信・引用
  「リズムあそび」という独自の保育方法を確立、実践し、
 健常児だけでなく、多くの障害のある子どもたちを
 自立へと導き、「保育の神様」と呼ばれた斎藤公子さん。

 本日は『致知』2008年6月号より、
 斎藤さんの心に残るエピソードをご紹介します。
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「保育の神様とひとりの少年」

 斎藤公子(さくら・さくらんぼ保育園創設者)


 『致知』2008年6月号
   特集「人生の道標」より

────────────────────────────────────
保育の仕事に携わって約60年。

この間、健常児以外にも、父親が自分の娘に生ませた子どもを
生まれてからずっと押し入れに閉じこめていたり、
貧しさゆえに客商売をしていた母親から障害を持って生まれた子どもなど、
実にいろいろな子を預かってきました。

しかし、入園希望を断ったことはありません。
保育は命を預かる仕事です。常に命懸けで臨んできました。

それだけに一人の人生が花開いた時の喜びは、
それまでの苦労を忘れさせてくれるものです。


私は一度、大声をあげて泣いたことがあります。


「さくら保育園」を立ち上げて間もない頃、
骨と皮だけのように痩せこけた東京の乳児を、
ある事情で預かることになりました。

その乳児を私は毎晩抱きしめて眠らせ、
その子もまた私をとても慕うようになりました。

ところが、年長になった時、その子の父親が突然来て、
連れて帰ったのです。

親権がある以上、どうしようもありません。
私は体が引き裂かれるようでした。

グッと我慢したものの、ついに堪えきれなくなって我が家に帰り、
人知れず大声で泣いたのです。


その子がすっかり見違えた少年になって
久々に園に顔を出してくれたのは中学生の時でした。
以来、時々園を訪れては園児と遊んでくれるようになりました。


さらに時を経て、成人したその子からある時、連絡が入りました。
結婚するので主賓の席に座ってほしいという通知でした。
私は喜んで出席し、スピーチでは自分が大泣きした時の話をしました。

彼は私の話を神妙な表情で聞いていましたが、
式が終わり皆を見送るや、私に駆けより
抱きついて泣きじゃくるのです。

見ると彼の奥さんも泣いていました。

長年の胸のつかえが取れたのに違いありません。

いつまでも私の心に残るさわやかな思い出の一つです。

※現在発行中の『致知』5月号には、
 引きこもりやニートなど、さまざまな問題を抱える子供たちを
 必ず立ち直らせてしまう鈴木紋子さんがご登場。

 子供たちとの心温まる思い出と、子育ての秘訣について
 詳しくお話しいただきました。P50~54をご覧ください。
 

「鉄腕・稲尾和久投手の運命を拓いたもの」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月19日(木)19時35分6秒
返信・引用
  「鉄腕・稲尾和久投手の運命を拓いたもの」

        藤尾秀昭 著『小さな経営論』より
────────────────────────────────────
昔、プロ野球に西鉄ライオンズという球団があったんです。
そこに稲尾和久という大投手がいました。

稲尾さんと同期で二人のピッチャーが入ったそうです。

ところが、その二人と自分の扱い方がぜんぜん違うわけです。

彼らはピッチング練習をしているんだけれど、
自分はバッティングピッチャーしかやらせてもらえない。
おかしいなあと思って、稲尾さんはタイミングを見計らって
二人に聞くんですよ。


「僕は3万5000円の給料と契約金50万円で入ってきたんだけど、
 君たちはいくらもらった?」

そうしたら二人は、契約金がそれぞれ500万と800万、
月給も10万と15万だったそうです。
球団の期待の度合いが全然違うわけです。

だから彼らはピッチャーの練習をしているのに、
自分はバッティングピッチャーばかりやらされるのか、
と稲尾さんは知るんですね。

普通ならみなさん、
「なんだ、馬鹿にするな、俺はもう辞める」というところです。
でも、稲尾さんはいわないんです。
どうすればいいか、じーっと見ていて考えるんです。

私はよくいうんですが、伸びていった人というのは
自分に与えられた環境、条件をすべて生かしきって成長していくんです。


わかりますか?

マイナスの条件もいっぱいあるんです。
そのマイナスの条件もすべて生かしきっていく人が成功するんです。
稲尾さんはまさにそうなんです。

彼は毎日バッティングピッチャーをやる。
だんだん嫌になってくる状況の中で、ハッと気づくわけです。
バッターというのはストライクばかり投げると嫌がるなって。

そりゃそうです。毎回毎回打っていたらしんどいでしょう。
3球ストライク投げて、1球外してやるとバッターが
一番嬉しそうにしている。

ボール球がきたら一球休憩できるからね。

そこに彼は目をつけるんです。


このボール球にする1球は俺だけのものだ。
この一球だけは別に相手を気づかわなくてもいい。

バッティングピッチャーだから3球はストライクを
投げなきゃいけないけれど、残りの1球はボールでいい。
だから、その1球は俺のものだ。

稲尾さんは、この1球で自分の練習をしようと決心するんです。
高め、低め、インコース、アウトコースと
ボール球を投げ分ける練習をしようと。

その結果、彼は名コントローラーといわれるピッチャーになるんです。


すごいと思いませんか。

普通の人間ならふて腐れる状況の中で、
1球のボールで練習しよう、と。

その一球だけは他の奴がピッチング練習するのと同じだと考えて、
高め、低め、アウトコース、インコースと投げ分けて
ピッチングの練習をしたんです。

1時間で480球投げたら、そのうちの120球は
自分のもんだと考えて練習を重ねて、
名コントローラーといわれるピッチャーになっていくんです。

そうやって自分の与えられた環境の中で
一心不乱に仕事をしていったから、
稲尾さんの人格が磨かれて、運命を招来していったんです。

http:// 

 

「尖閣諸島はどの国のもの」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月18日(水)17時31分19秒
返信・引用
  ◆尖閣(せんかく)諸島の領有が脅かされています。

『致知』平成23年1月号連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」では、
憂国の高校教師・占部賢志氏が、尖閣諸島の日本領有を裏付ける歴史を
紹介して大反響です。
…………………………
実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。

明治以来、長い間におよんで古賀辰四郎及び子息の善次、その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。

古賀辰四郎が沖縄に来島したのは明治12年、24歳の時です。爾来、石垣島に古賀商店を開いて海産物を取り扱い、尖閣諸島の開拓をはじめ多くの功績を残し、明治42年には藍綬褒章を下賜されたほどの人物でした。

古賀は、明治28年に政府が尖閣諸島の領有を宣言するや、「官有地拝借御願」を内務大臣に提出。大臣は30年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。

明治33(1900)年に開かれたパリ万国博覧会では、尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。

明治36年の内国勧業博覧会では、出品の真珠2点を皇太子殿下が御買上げになるという栄誉にも浴しています。

大正7年に古賀辰四郎は63歳で死去しますが、この壮大な事業は長男の善次が継ぎました。

善次は昭和6年に国に払い下げを申請し、翌年、尖閣諸島のうち魚釣島を含む四島が善次の所有となったのです。

中国政府及び台湾の一部勢力が尖閣諸島の領有を言い募るのであれば、善次が遺した次の証言を刮目(かつもく)して見よと言いたい。

「大正8年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。

 そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と31人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、
 手厚い保護をしました。

 私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、
 修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

 翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。

 その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。

 いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。

 個人からの手紙ではありません、政府としての感謝状なんです」

ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保存されています。

今を遡ること90年前から、中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた決定的な証拠にほかなりません。

http:// 

 

「診療所へ行きます。どなたか、送ってくれませんか」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月17日(火)15時15分56秒
返信・引用
  産経新聞のコラム記事の紹介です。

「診療所へ行きます。どなたか、送ってくれませんか」  (吉村昭『梅の蕾(つぼみ)』)

  『三陸海岸大津波』の作者、吉村昭が太宰治賞を受賞した『星への旅』以来、約30年ぶりに岩手県田野畑村を主舞台にした短編小説を発表した。『梅の蕾』。
平成7年の秋のことだった。
  主人公は2人、といってよい。《三陸海岸の陸の孤島》と呼ばれた僻村(へきそん)の村おこしに成功したものの、無医村であることに悩む村長の早瀬。そして家族とともにそんな田野畑村に赴任してきた、エリート医師の堂前である。
  堂前一家は海山の自然豊かなこの村の生活にすぐになじんだ。何より、《名医と言われる医師の中には、病人に素っ気無い態度をとったり荒い言葉を口にする者がいるときくが、堂前がおだやかな態度で病人を診察していることに、早瀬は感謝の念をいだいた》。
  だが、2年後の梅のつぼみがふくらむころ、その開花を心待ちしていた堂前の妻が、不治の病のために逝く。
《診療所の一般診療は、休診になった。
  これで、すべては終わりになった、と早瀬は思った》
  ところが、堂前は帰ってきた。
  「妻の葬儀の時に、あんなに多くの村の人が来てくれたでしょう。あれを見たら、村にもどらぬわけにはゆきませんよ」―。そう言ったあと、堂前が続けたのが冒頭のことばである。
  この小説にはモデルがいる。

(産経新聞文化部編集委員  関厚夫)
産経新聞
平成24年4月14日
次代への名言
わが心の故郷みちのく編より

http:// 

 

「みなさん、ほんとうに、ありがとう」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月14日(土)18時16分38秒
返信・引用
  【3分で読める感動する話】 (シェア自由)
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「みなさん、ほんとうに、ありがとう」

行徳哲男(日本BE研究所)
... 『いま、感性は力』(致知出版社)より
───────────────────────────
「死との対決」によって「生」を鮮烈にして逝った一人の若者がいました。
いまから9年前の1月21日、富山県の砺波市という町で、
ガンで亡くなった井村和清さんです。

彼は医師でした。
右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断しましたが、
その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移してしまいます。
そして、昭和54年1月、亡くなりました。
享年31歳でした。
( 中 略 )
その彼が遺書を残しているんです。
その遺書は「ありがとう、みなさん」と題されていますが、
私はこれをバイブルにしていつも持ち歩いています。
迷ったり、悩んだりしたときは、これを読み上げることにしているんです。

彼は2人の子供に
「心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい」
と書き、
「思いやりのある子とは、まわりの人が悲しんでいれば共に悲しみ、
 よろこんでいれば、その人のために一緒によろこべる人のことだ。
 思いやりのある子は、まわりの人を幸せにする。
 まわりの人を幸せにする人は、まわりの人々によって、
 もっともっと幸せにされる、世界で一番幸せな人だ。
 だから、心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい。
 それが私の祈りだ……。
 私はいま、熱がある。咳きこんで苦しい。
 私はあと、いくらもそばにいてあげることができない。
 だから、お前たちが倒れても手を貸してあげることができない。
 お前たちは倒れても自分の力で立ち上がるんだ。
 お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。
 雪の降る夜に 父より」

そしてまた彼は、こんな遺書も書いています。
「夜明けごろになると妻が泣くようになったのは、10月の終わりでした。
 なぜ泣くのか、と尋ねますと、妻は『怖い夢を見た』と言うのです。
 どんな夢かと聞きますと、私がいなくなった夢を見た、と言うのです。
 他の者は皆いるのに、私の姿だけがどこにもない。
 もう二度と逢えないのだと思い、泣いていたと言うのでした。
 また、こんな夢もありました。
 私が酸素吸入を受けている。
 その顔は蒼白で、痩せてカマキリのような顔をしていた。
 『何か隠しごとをしているのならそれを言って。一人で死なないで』
 そう言って泣く妻に、
 もうこれ以上は隠し続けることはできないと観念し、
 私は自分の病気のことを告げました」

「私が右足を切断したのは、昭和52年の11月でした。
 大腿より切断しなければ肉腫は確実に全身に及び、
  生命にかかわってくる。
 私は切断を決心しました」

 しかし、肉腫は容赦なく彼をむしばんでいき、さらに増大し続けます。
 これからどうなるかわからない。
 いまやっている治療法が効果をみせることもなく、
 大量の喀血、肺炎、あるいは悪液質に陥り、
 二度と職場を廻ることができなくなるかもわからない。

「ただ、ようやくパパと言えるようになった娘と、
 まだお腹にいるふたり目の子供のことを思うとき、
 胸が砕けそうになります。
 這ってでももう一度と思うのです。
 しかし、これは私の力では、どうすることもできない。
 肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、
 私の背中は一瞬凍りました。
 その転移巣はひとつやふたつではないのです。
 レントゲン室を出るとき、私は決心していました。

 歩けるところまで歩こう。

 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、
 私は不思議な光景を見ていました。
 世の中がとても明るいのです。
 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
 走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえるのです。
 アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえました」

「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ
 私のために参拝してくれていることを知りました。
 友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、
 長い道程を担いできてくれました。
 これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。
 俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、これを担いできた。
 彼はそう言って、一斗以上もありそうな量の水を置いてゆきました。
 また、私が咳きこみ、苦しそうにしていると、
 何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに来てくれるのです。
 みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている。
 ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
 皆さん、どうもありがとう。
 這ってでももう一度戻って、残してきた仕事をしたいと
 願う気持ちは強いのですが、
 咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血液を見ていますと、
 もはやこれまでか、との心境になります」

実はこの遺書には「あとがき」がふたつあるのです。
最後の「あとがき」は彼が死んだあとに彼の奥さんが綴ったものです。
だから、彼の「あとがき」は先にきたんです。

彼は
「原稿をまだ半分も書き終わっていないのに、
 私は『あとがき』を書き始めています。それには訳があります」
 といって、日一日と悪化する病気に、
「もう有余はできない。
 ここまでくれば、いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。
 頭と尾があれば、胴は少々短くても魚は魚であり、
 尾がなければ、それは魚でない。
 だからとにかく『あとがき』という尾を書くことにしたんです」
彼はその「あとがき」の中にこう書いています。

「頼みがあります。
 もし私が死にましたら、残るふたりの子供たちを
 どうぞよろしくお願い致します。
 私が自分の命の限界を知ったとき、
 私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
 そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が欲しいと思ったのです。
 それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでした。
( 中 略 )
 祈りは通じ、ふたり目の子供が妻の胎内に宿ったのです。
 妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、
 私はどうしても、妻と飛鳥を、
 母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。
 三人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいていける。
 妻がもし艱難に出遭うことがあっても、
 子供たちふたりが心を合わせれば、
 細い体の妻をきっと助けてくれる。
 そう信じています」

「そしてもうひとつお願いがあります。
 それは、私の死で誰よりも苦しみ、誰よりも悲しみ、
 誰よりも泣いている父と母をどうか慰めてやってください。
 私にはもったいない、仏さまのような父と母でした。
 父は自分のすべてを捨てて私を救おうとした。
 母は実母でもないのに、
 血の通う肉親以上の深い愛で私を抱き締めてくれた。
 いまはこの優しい父と母になんの孝行もできない。
 それどころか、親にわが子の葬式を挙げさせる、
 こんな残酷なことはない。
 悲しくてたまりません。
 いまから老いていく父と母をどうか慰めてやってください。
 人の魂が永劫であることを信じたい。
 人の魂が永劫であるなら、いつの日にか、
 再びこの父と母の腕に抱かれる日だってくる。
 人に生まれ変わりがあり、私にその機会が与えられるなら、
 再び三十歳の短い命であってもいいから、
 もう一度、この父と母のもとに生まれてきたい」

「ありがとう、みなさん。
 世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は滅多にいません。
 その点、私は幸せです。
 人の心はいいものですね。
 思いやりと思いやり。
 それが重なりあう波間に、私は幸福に漂い、
 眠りにつこうとしています。
 幸せです。
 ありがとう、みなさん、
 ほんとうに、ありがとう」

http:// 

 

「避難所から避難所への支援」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月12日(木)19時55分36秒
返信・引用
  東日本大震災を忘れないように氣にしたいものです。
今回紹介する話はそんな避難所のリーダーの話です。

(↓ここから本文↓)

行政の支援も届かない自主避難所を
笑いの絶えない避難所として運営しただけでなく、
独自のルートで他の被災地へも物資の支援などを行い、
「奇跡の避難所」と呼ばれた石巻・明友館。

本日は現在発行中の『致知』5月号より、
明友館がどのように他の避難所への支援を行っていったのか、
リーダーの千葉氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
「避難所から避難所への支援」

  千葉恵弘
  (石巻・奇跡の避難所「明友館」リーダー)

  『致知』2012年5月号
   特集「その位に素して行う」より
────────────────────────────────────
【記者:他の避難所への支援はどのように始めていかれたのですか】


明友館を自主避難所として認めてもらう働きかけを
役所にしていく中で、同じ境遇の方が
数多くおられることを知りました。

たまたま明友館の受ける支援の規模が
我われだけではあり余るほどだったので、
すぐにでも困っている所を探し出し、
いま食べる物に困らないという状況をつくっていかなければと。

だから明友館に物資が届き始めて、
3日目ぐらいから支援活動に入りましたね。


すると案の定、なんの物資も届いていない施設や地域が
いっぱいあったから、まずはそういう情報をできるだけ多く集めました。

そして「明友館に片道の燃料だけ詰めてトラックで来てくれ」と
呼びかけました。
さらに自分たちの避難所だけではなく、周りの民家も見回ってほしいと。

結局我われだけで回れる範囲では限られてしまうので、
「周りにこういう困っている人がいるから、俺手伝いますよ」
と言ってくれる奴が、とにかく出てきてくれ、出てきてくれ、
と祈るような気持ちでした。


物資が届いた時に公平や平等と言ってると、
後手後手になってしまうんです。

被災者が欲しいと口にした物は、いますぐ欲しい物なんですよ。
僕は優先順位なんて勝手に決めてしまっていいと思うんです。
まずお年寄りと子供に分け与えれば、
後は自分たちで適当に裁量したらいいと。


【記者:そうやってほかの避難所までを導いていかれたのですね】

うちのやり方はこうだから、そのほうが皆の助けになるなと思ったら、
明友館方式でやっちゃえ。それでもし手伝えることがあったら
なんでも要望を言ってくれ、そうやって広げていこうぜと言って。

それがまたね、広がっていくんですよ、その後。


自分たちがしてもらったから後の人のことはいいや、って
いうのはまずなかったですね。


要はやり方だと思うんです。

整理券を配って長蛇の列を組ませ、
一人一個ずつ配っていくのもいいんでしょうが、
大事なのは「支援する」という気持ちを
広げていくことじゃないかと。

もらってばかりもいいけれど、でも誰かの助けになるような、
そういう動きや目線も持ってくださいよと
常に伝えながら活動していました。

だから明友館に関わった人にはその避難所や
施設の世話役になってもらいました。
そして本人ができないことは、我われがバックアップをしていく。

いままでの経験上、困っている人が
困っている人の情報を持っていて、繋がっているものなんです。

ずるい人や楽をしている人はそこ止まりなんですよ。
明友館では現在、宮城県内だけでなく、
岩手県の半島にまで支援の範囲を広げていますが、
いまでもそういう姿勢が基本にありますね。


※5月号掲載のインタビュー記事では、
 千葉さんの活動の原動力や被災直後に取った行動、
 避難所を運営する時に決めた唯一のルールなどが
 詳しく紹介されています。P38~をご覧ください。

http:// 

 

「空の上でお客様から学んだこと」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月11日(水)08時35分58秒
返信・引用
  飛行機にかかわる人の話です。

(↓ここから本文です↓)

本日は現在発行中の『致知』5月号より、
15万部を越えるベストセラーとなった
『空の上で本当にあった心温まる物語』シリーズなどの
著書がある三枝理枝子氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
「空の上でお客様から学んだこと」

 三枝理枝子(ANAラーニング研修事業部講師)

 『致知』2012年5月号
  連載「第一線で活躍する女性」より
────────────────────────────────────
入社2年目に転機が待ち受けていました。
八丈島から帰りのプロペラ機に搭乗していた時のことです。

機内が大きく揺れた際に、男性のお客様が手にしていた
ペンダントが座席の間に落ちて取れなくなってしまいました。

どうしても見つからないので、
到着地で整備士に座席を分解してもらって、
やっとペンダントが見つかったんです。

そうしたらそのお客様の目からぼろぼろと
涙が溢れ出てきたので、驚いてしまったことがありました。

実はその方の息子さんが1年前に就職祝いの旅で訪れた
八丈島で交通事故に遭って亡くなられていて、
そのペンダントは息子さんの大事な形見だったのです。

しかもそれだけではなくて、その息子さんは
自動車会社に就職が決まっていて、
ご両親は息子のつなぎ姿を楽しみにされていたそうです。

そして、ペンダントを探しに来たのは
若いつなぎ姿の整備士だった。

これはきっと息子が自分の姿を見せようと
したのだと思ったら気持ちが落ち着いて、
初めて息子の死を受け入れることができたと
涙ながらにおっしゃられたのです。

私はこの話をお聞きしていた時に、
大きな衝撃を受けました。
この方のために何もして差し上げることができなかったのだと。


もしそのペンダントを落とされなかったら、
その方はきっと悲しみに包まれたまま
降りていかれたことでしょう。

航空会社の仕事はお客様を目的地まで安全に、
かつ定刻どおりにお届けすることが一番の目的です。

でもそれだけではなく、何かで悩まれている方に、
たとえ、それが一見して分からなくても
そっと心を寄り添わせて、
少しでも気持ちが楽になっていただいたり、
元気になっていただくのも大事な仕事なんだな、
と気がついたんです。

大変難しいことではあります。
でも、何気ない会話からヒントが出てくることもありますから、
現役で飛んでいる時にはいつもお客様への
小まめなお声がけを心掛けていました。

※その他、三枝さんが信条とされてきた3つの信条や
 お客様と接するうえで常に心掛けておられることとは?
 詳しくは『致知』5月号(P72~)をご覧ください。

…………………………………………………………………………………………
■三枝様から『致知』へのメッセージをいただきました
…………………………………………………………………………………………
『致知』との出合いは、『小さな人生論』を読んでから。
経営者の友人からもすすめられていました。

『致知』からは徳を積むことで人格を高めていくことが、
周りを幸せにして、自分の成功にも繋がっていくことを教えてもらい、
ファンになりました。

単行本では、渡部昇一先生、稲盛和夫先生、
北尾吉孝先生の本が特に好きです。

正直申しますと、私にとって雑誌『致知』は
一回で頭に入る内容ではありません。
家でじっくり読んで、さらに移動中に何度も繰り返し読んで、
初めて、心に染み入る感じです。

講演や、研修でも、心に響いた言葉を使わせて頂くことも多いです。

このような雑誌が日本人としての誇りや豊かさを
回復していく最良のものと思っています。

■三枝さんの公式ブログ
http://ameblo.jp/riekosaegusa/

http:// 

 

「マザーテレサへの質問」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月 9日(月)19時19分33秒
返信・引用
  マザーテレサさんは凄い女性でしたが、根本がしっかりしていたと言えます。

(↓ここから本文です↓)

本日は現在発行中の『致知』5月号より、
マザー・テレサのもとでボランティア精神を学び、
深い親交を重ねた五十嵐薫氏のお話をご紹介します。
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「マザー・テレサへの質問」

五十嵐薫(一般社団法人ピュア・ハート協会理事長)

『致知』2012年5月号
「マザー・テレサの生き方が教えてくれたこと」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201205_pickup.html#pick2
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かつてある新聞記者がマザー・テレサに
こんな質問をしたそうです。

「あなたがたったいま死にかけている人を
  助けて何になるのですか?

 この人は必ず死ぬのですから、
 そんなことをしても世の中は変わらないのではないのですか」

と。マザー・テレサは毅然としてこう答えられました。

「私たちは社会を変えようとしているのではありません。
 いま、目の前に餓えている人がいたら、
 その人の餓えを満たしてあげる。
 ただそれだけでいいのです。

 確かに、そのこと自体で世の中は変わらないでしょう。
 でも、目の前に渇いている人がいれば、
 その渇きを満たすために私たちはそのいのちに仕えていくのです」

彼女は別の場所ではこうも言っています。

「私たちのやっていることは僅かな一滴を
 大海に投じているようなものです。
 ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです」。

私たちのレインボー・ホーム
(五十嵐氏がインドに設立した孤児たちの家)もそうありたいのです。

人は
「インドで僅か十人、二十人の親のない子供たちを
  助けてどうなるのですか。

  世界にはもっとたくさんの孤児がいるのに」

と言うかもしれません。
しかし、目の前で「寂しい」と泣いている子供たちがいるのです。
それは私たちにとってかけがえのないいのちであり、
自分自身なのです。

そのいのちをそっと抱きしめてあげるだけでよいのです。

ボランティアとは、自発的に無償で他に奉仕することを意味するのですが、
その奥には

「人間は他のいのちに仕えるとき、
 自分のいのちが最も輝く」

という、生命の法則を実践で知ることに意味があると思います。

http:// 

 

「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月 8日(日)18時13分39秒
返信・引用
  ゾウのはな子の逸話から父の生き方を学んだ息子の話です。

(↓ここから本文です↓)

本日は、『致知』2007年5月号「致知随想」や
人間力メルマガで紹介され、感動を呼んだ作品
「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」をご紹介します。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」

   山川宏治(東京都多摩動物公園主任飼育員)

 『致知』2007年5月号「致知随想」
 ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
http://www.chichi.co.jp/monthly/200705_index.html
……………………………………………………
■「殺人ゾウ」の汚名
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
東京・井の頭自然文化園に、
今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。

彼女の名前は「はな子」。
私が生まれる以前の昭和24年に、
戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。

当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
小さくかわいい彼女は、
子どもたちの大歓声で迎えられました。

遠い南の国、タイからやって来たはな子は
たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
はな子は思いがけない事故を起こします。
深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。


「殺人ゾウ」──。


皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
身動きひとつ取れなくなりました。

餌をほとんど口にしなくなり、
背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
かわいく優しかった目は人間不信で
ギラギラしたものに変わってしまいました。

飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
希望する者は誰もいなくなりました。
空席になっていたはな子の飼育係に、
当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
それからはな子と父の30年間が始まりました。


「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」


と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
着任して4日後には1か月以上
繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。

そこには

「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」

という気持ちがあったのでしょう。

父はいつもはな子のそばにいました。
出勤してまずゾウ舎に向かう。
朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
外へ出るおめかしをしてあげる。

それから兼任している他の動物たちの世話をし、
休憩もとらずに、暇を見つけては
バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
話し掛け、触れる……。

「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
はな子の楯になりました。

そんな父の思いが通じたのか、
徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
元の体重に戻りつつありました。

ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
はな子は餌を食べることができなくなりました。
自然界では歯がなくなることは死を意味します。
なんとか食べさせなければという、
父の試行錯誤の毎日が始まりました。

どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
100キロ近くの餌を細かく刻み、
丸めたものをはな子に差し出しました。

それまで何も食べようとしなかったはな子は、
喜んで口にしました。
食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。

定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
はな子に寄り添ってきました。
自分の身体ががんという病に
蝕まれていることにも気づかずに……。

はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。

動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
一度も会いに行きませんでした。



■亡き父と語り合う
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

思えば父の最期の5年間は、
はな子の飼育に完全燃焼した後の
余熱のような期間だったと思います。

飼育員としての父の人生は、
はな子のためにあったと言っていいかもしれません。

残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
キャッチボールすらしたことがないのです。
家にじっとしていることもなく、
自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、
「なんだ、この親父」と
反感を持つこともありました。

ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は
絶対に歩まないと思っていたはずの私が、
気がつけば飼育員としての道を歩いています。

高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、
父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。

それまでは父と比べられるのがいやで、
父の話題を意識的に避けていた私でしたが、
はな子と接していくうちにゾウの心、
そして私の知らなかった父の姿に出会いました。

人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした
ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。

その難しい仕事のために、
父はいつもはな子に寄り添い、
愛情深く話し掛けていたのです。

だからこそ、はな子はこちらの働きかけに
素直に応えてくれるようになったのだと思います。

一人息子とはほとんど話もせず、
いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、
生前はさっぱり分かりませんでしたが、
はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。

私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、
お客様が直接おやつをあげるなど、
それまでタブーとされてきた
はな子との触れ合いの機会を設けました。

父、そして私の見てきた
本来の優しいはな子の姿を多くの方々に
知ってほしかったのです。

人々の笑顔に包まれたはな子の姿を
父にも見てほしいと思います。

http:// 

 

「究極のスープ」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月 5日(木)19時03分19秒
返信・引用
  人は支えてくれる人がいるから生きていけるのだと思います。
支える人間になれたら素晴らしいと思います。

(↓ここから本文です↓)

本日は現在発行中の『致知』5月号より、
ひきこもりやニート、ゲーム脳など、さまざまな問題を
抱える子供たちを必ず立ち直らせてしまう教育者、
鈴木紋子氏のお話をご紹介します。
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「究極のスープ」

鈴木紋子(湘南教育研修センター副理事長)
 『致知』2012年5月号 特集「その位に素して行う」より
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昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている一年生の子がいました。
私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた十二月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
 どこの高校も受けられないと担任に言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、

「受験までに必要な勉強の基礎を、
 全部私が責任を持って教えておきますから、
 受験させていただけませんか」

とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり三時間教えては
十時半の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。
その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。

前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。

「ご主人様がご病気と聞いて
 チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
 これ一袋で一食分の栄養がとれます」

と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、

「……これが本当の神様だわ」

と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、

「皆にいじめられても頑張るのよ」

と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、

「先生、泣かないでください」

と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、
三年も生き長らえることができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。

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「亭主を早死にさせる十カ条」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月 5日(木)18時46分45秒
返信・引用 編集済
  ある方から教えて頂いた元氣の出る話です。
参考にして長生きしましょう。

(↓ここから本文です↓)

アメリカでは
「亭主を早死にさせる十カ条」
という格言があるそうです。

「亭主を早死にさせる十カ条」

  1.亭主は、できる限り肥(ふと)らせなさい
  2.家では手伝いなどさせず、じっと座(すわ)らせていなさい
  3.酒をどんどん飲ませなさい
  4.塩辛いものを食べさせなさい
  5.動物性脂肪が含まれた食品は好きなだけ食べさせなさい
  6.コーヒーや甘い物は幾らでも与えなさい
  7.タバコは好きなだけ吸わせなさい
  8.夜遅くまでTVを観(み)させなさい
  9.休暇旅行など計画させない様にしなさい
10.絶えず夫への愚痴(ぐち)や文句を言い、それを聞かせ続けなさい

この「十カ条」の反対のことをすれば、
貴女の夫はいつまでも元氣で長生きしてくれますよと言う教訓だと思います。
もちろん、夫ということに限らず、我々社会人として、健康でい続けるために、
氣を附けなければならない事柄と思います。
この十カ条を読んで、耳の痛い方もたくさんおられると思いますが、
こういった生活習慣が病気に転ずることもありますので、注意しましょうね。

一方で、105歳を超え、長寿の教育学者として知られ、
今も現役で活躍されている方(註:しいのみ学園昇地三郎さん)は、こう言われています。

「健康法に王道はありません。
  身体に良い平凡な生活習慣をコツコツ続けることです」

例えば、
「食事を一口30回噛む」
「棒を使った5分間体操をする」
「硬いマットで寝る」
「寒水摩擦(かんすいまさつ)をする」
などなどです。
この方は、今でも世界各地に出向いて、精力的に講演活動を続けておられるそうですが、
その体力の源が、この日々の習慣にあるのでしょう。

http:// 

 

ちょっと季節外れですが・・・。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 4月 4日(水)18時31分55秒
返信・引用
  ある方のブログで紹介された話です。

(↓ここから本文です↓)

ちょっと長いのですが、
どうしてもご紹介したい実話なので、
読んでいただけますか?

『次のお客様、どうぞ』

カウンター越しに声をかけると、
柔和な顔をした老人が杖をついて立っているのが見えた。

老人がそろりそろりとカウンターまで歩いてくると、
聞き取れないほどの小声でニューオリンズまで
行きたいと言った。

『今夜は、もうそっちへ
 行く便がありません。

 明日まで
 お待ちいただくことになりますが』
と言うとその老人は
とても不安げな顔になった。

『予約はしてあるのですか』

と聞いてみたが、聞けば聞くほど、
いよいよ困った様子で、
ひたすら
『ニューオリンズに
 行けって言われたから』
と繰り返すばかり。

老人は
クリスマス・イヴだというのに、
義理の妹に、
『身内のいる
 ニューオリンズに行きなさい』
と車に乗せられ、この空港の前で下ろされたらしい。

彼女は老人に現金をいくらか持たせ、
『中へ行って、
 これで切符を買いなさい』
と言って立ち去ったのだ。

私が
『明日もう一度
 来ていただけますか』
と聞くと、
『妹はもう帰ってしまったし、
 今晩泊まるところもない。

 このまま、ここで
 待つことにします』
と言った。

私はクリスマス・イヴの夜に、
家族から離れて働く、ひとりぼっちの我が身を憐れんでいたが、
この老人の事を思って、私の胸は痛んだ。

私はただちに、
『ご安心ください。
 万事うまくやってあげますからね』
と彼に伝え、
顧客サービス係に、明朝一番の便を、予約してもらった。

航空運賃も年金受給者用の特別割引にし、
差額は旅費の足しに、してあげることができた。

一方、老人は、くたびれ果てて、
立っているのも辛そうだ。

『大丈夫ですか』と、
カウンターの向こうに回ってみると、
片脚に包帯を巻いている。

こんな脚で、衣類をぎっしり詰め込んだ買い物袋を下げて、
ずっと立ちつくしていたのだ。

私は車椅子を手配し、みんなで老人を、その車椅子に座らせたが、
見ると、足の包帯に、少し血がにじんでいる。

『痛いですか』と聞くと、
老人は
『心臓のバイパス手術をしたばかりでね、
 そのために必要な静脈を、
 脚から取ったんだよ』

なんということだ!

老人は心臓のバイパス手術を受けたばかりの身体で、
付き添いもなく、たった一人で!

私は上司の部屋に行き、どこかに老人を、
泊めてあげてほしいと相談した。

上司はすぐさま、ホテル一泊の宿泊券と、
夕食と朝食の食事券を出してくれた。

カウンターに戻った私は、ポーターにチップを渡して
「この方を階下までお連れして、
 シャトルバスに乗せてあげて」
と頼んだ。

車椅子の彼の上に身をかがめて、ホテルのこと、食事のこと、旅の段取りを、
今一度説明しながら、彼の腕を、とんとんと叩いて励ました。

『すべてうまくいきますからね』

いざ出ていく段になると、老人は『ありがとう』
と頭を下げて、泣き出した。

私も、もらい泣きしてしまった。

あとになって、
上司の部屋に礼を言いに戻ると、
彼女はほほえんでいった。

『いいわねえ、こういう話。
 その人は、あなたのためにやってきた
 クリスマスの使者だったのよ』」

(「クリスマスの使者」より 著者不明)

空港のカウンターで働いていたこの女性はクリスマスに、
家族から遠く離れ、ひとりぼっちで働いている自分を
みじめに思っていました。

「自分の困難から逃れる一番の方法は、
 他人に目を向けること」
という一言があります。

つまり、自分の困った事を、少しでも、小さくしたいなら、
困っている他人を、助けることから始めなさい、
ということです。

私の義理の姉夫婦は、離婚して、早朝から
働かなければならない女性の子供を、
毎日、朝早く預かって、子供に朝食を食べさせ、
そこから学校に送り出しています。

私はそれを見て、
「大変だなあ」
と思うのですが、義理の姉夫婦は、そのことで、
元気を得ているようなのです。

困ったことが起こると、いつも私は、この実話や、
義理の姉夫婦のことを考えるようにします。

そうするといつも、
自分よりも困っている人の事を思い出すのです。


育自コンサルタント
-自分を育てるお手伝い-

杉本恵洋(すぎもと しげひろ)

http:// 

 

宮北 侑季様の話『時代劇 着物プチネタ』

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月29日(木)18時29分24秒
返信・引用 編集済
  響く言葉(言響)を主宰している宮北さんの話より。

『時代劇 着物プチネタ』

女性の着物のひとつに「お引きずり」があります。

よく、時代劇に出てくる着物のすそを床に引きずって歩く姿、見たことありますよね。

ただ、外出をする際は、引きずっていると当然汚れますので、

着物をたくし上げて自分の手で持ちます。これを「褄(つま)を持つ」といいます。


さて、身分によって持つ手が違うことご存知でしたか?

・褄(つま)を右手で持つ人→身分の高い人・花嫁・正室

・褄(つま)を左手で持つ人→芸者・遊女・側室


なんです。左手で褄をもつ「芸者・遊女・側室」は、旦那さんに何か言われた際、

すぐに対応できるよう、利き手である右手を空けとくんですね。

「左妻(2号さん)」という言葉も、ここからきたそうです。


身分の高い人や正室は、旦那様に何か言われても、乳母や侍女がやってくれるので、

利き手を空けておく必要が無いわけです。

以上、着物小話でした~♪

http:// 

 

「人生のチアリーダー」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月29日(木)18時21分44秒
返信・引用
  (↓ここから本文です↓)

本日は現在発行中の『致知』2012年4月号より
車椅子のアーティストとして活躍する
佐野有美さんの随想記事をご紹介します。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「人生のチアリーダー」

  佐野有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト)

 『致知』2012年4月号「致知随想」
 ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
………………………………………………………………………………………………
「私、チアに入りたいんだけど、一緒に見学に行こうよ」

 友人からのこの誘いがすべての始まりでした。
 高校に入学し、部活に入る気もなかった私は、
 友人に付き添いチアリーディング部の練習を見に行きました。

 目に飛び込んできたのは、先輩たちの真剣な眼差し、
 全身で楽しんでいる姿、そして輝いている笑顔でした。

 それを見た時、

 「すごい!! 私も入りたい!!」

 という衝動に駆られたのです。
 しかし、次の瞬間、

 「でも私には無理……」

 という気持ちが心を塞いでしまいました。

 私には生まれつき手足がほとんどありません。
 短い左足の先に三本の指がついているだけ。
 病名は「先天性四肢欠損症」。

 指が五本揃っていなかったり、
 手足がないなどの障害を抱えて生まれてくるというものです。

 幼少期から母親の特訓を受け、一人で食事をしたり、
 携帯でメールを打ったり、字を書くことや
 ピアノを弾くこともできますが、
 手足のない私には到底踊ることはできません。

 半ば諦めかけていましたが、
 「聞いてみないと分かんないよ」という
 友人の声に背中を押され、顧問の先生に恐る恐る
 「私でも入れますか?」と聞いてみたのです。

 すると先生は開口一番、

 「あなたのいいところは何?」
 と言われました。

 思わぬ質問に戸惑いながらも、私が

 「笑顔と元気です」

 と答えると、

 「じゃあ大丈夫。明日からおいで」

 と快く受け入れてくださったのです。

 手足のない私がチアリーディング部に入ろうと決意したのは、
 「笑顔を取り戻したい。笑顔でまた輝きたい」
 という一心からでした。

 生まれつき積極的で活発だった私は、
 いつもクラスのリーダー的存在。
 そんな私に転機が訪れたのは、小学校六年生の時でした。

 積極的で活発だった半面、気が強く自分勝手な性格でもあり、
 次第に友達が離れていってしまったのです。

 そんな時、お風呂場で鏡に映った自分の身体を
 ふと目にしました。

 「えっ、これが私……。気持ち悪い……」

 初めて現実を突きつけられた瞬間でした。

 孤独感で気持ちが沈んでいたことも重なり、

 「よくこんな身体で仲良くしてくれたな。
   友達が離れてしまったのは身体のせいなのでは……」

  と、障害について深く考えるようになり、
  次第に笑顔が消えていきました。

 そのまま中学三年間が過ぎ、
 いよいよ高校入学という時になって、

 「持って生まれた明るさをこのまま失っていいのだろうか。
  これは神様から授かったものではないか」

 と思うようになり、そんな時に出会ったのが
 チアリーディングだったのです。

 初めのうちはみんなの踊りを見ているだけで楽しくて、
 元気をもらっていました。

 しかし、どんどん技を身につけて成長していく
 仲間たちとは対照的に、何も変わっていない自分が
 いることに気づかされました。

「踊りを見てアドバイスを送って」と言われても、
「踊れない自分が口を出すのは失礼ではないか」

 という思いが膨らみ始め、仲間への遠慮から
 次第に思っていることを言えなくなってしまったのです。
 せっかく見つけた自分の居場所も明るい心も失いかけていました。

 「チアを辞めたい。学校も辞めたい……」。

 そんな気持ちが芽生え、次第に学校も休みがちになりました。
 しかし、私が休んでいる間も、
 「明日は来れる?」と、チアの仲間やクラスメイトは
 メールをくれていました。

 「自分が塞ぎ込んでいるだけ。素直になろう」

 そう分かっていながらも、一歩の勇気がなく、
 殻を破れずにいる自分がいました。

 その後、三年生となった私たちは、
 ある時ミーティングを行いました。
 最終舞台を前に、お互いの正直な気持ちを
 話し合おうということになったのです。

 いざ始まると、足腰を痛めていることや学費の問題など……、
 いままでまったく知らなかった衝撃的な悩みを
 一人ずつ打ち明けていきました。

 「みんないっぱい悩んでいるんだ。辛いのは私だけじゃない……」

 そして、いよいよ私の番。震える声で私は話し始めました。

 「自分は踊れないから……

  みんなにうまくアドバイスができなくて……

  悪いなって思っちゃって……

  みんなに悪いなって……

  だから、だから、これ以上みんなに迷惑かけたくなくて……」

 続く言葉が見つからないまま、涙だけが流れていきました。
 そうすると一人、二人と口を開いて、

 「私たち助けられてるんだよ」
 「有美も仲間なんだから、うちらに頼ってよ」
 と、声をかけてくれたのです。
 そして最後、先生の言葉が衝撃的でした。

 「もう有美には手足は生えてこない。
  でも、有美には口がある。
  だったら、自分の気持ちはハッキリ伝えなさい。
  有美には有美にしかできない役目がある!!」


 これが、私の答えであり、生きる術でした。
 チアの仲間や顧問の先生に出会い、
 私は自分の使命に気づかされました。

 声を通して、私にしか伝えられないメッセージを
 届けたいとの思いから、高校卒業の二年後、
 二〇一一年六月にCDデビューを果たし、
 アーティストとして新たなスタートを切りました。
 十二月には日本レコード大賞企画賞をいただくことができたのです。

 チアリーダーという言葉には、
 「人を勇気づける」という意味があります。
 私は誰かが困っていたり、悩んでいたりする時に、
 手を差し伸べることはできません。

 しかし、声を届けることはできる。
 チアリーディング部を引退したいまも、
 私は人生のチアリーダーとして、
 多くの人に勇気や生きる希望を与えていきたいと思っています。
…………………………………………………………………………………
 月刊『致知(ちち)』は、昭和53年の創刊以来、
 33年間、いまの時代を生き抜くためのヒントを満載し、
 皆さまの人間力・仕事力アップに役立つ記事をお届けしております。

 まだ『致知』をお読みでない方は、
 ぜひ定期購読をおすすめします。
 ⇒ http://www.chichi.co.jp/guide.html

※最新号の立ち読みページ(電子ブック)はこちらから
 http://mixpaper.jp/scr/viewer.php?id=4f4ddd6da671a

http:// 

 

「被爆をこえて生きる」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月26日(月)19時24分32秒
返信・引用
  放射能におびえる今の日本人に必要な情報ではないかと思います。

(↓ここから本文↓)

   東日本大震災から丸一年が経過したいまもなお、
   福島第一原発事故は収束の兆しを見せず、
   放射線による人体への影響が懸念されています。

   そんな中、私たちは放射線とどう向き合い、
   どう対処していけばよいのでしょうか。

   ここに紹介する平賀佐和子さんの実例は
   私たちが生きていく上での
   大きな示唆を与えてくれています。

   昭和20年8月6日、9歳だった平賀佐和子さんは
   爆心地から僅か2キロのところで被曝。
   しかし、75歳の今日も
   7人の子供と14人の孫に囲まれ、
   元気に暮らしています。

   被爆後、顔は火傷で3倍ほどに腫れ上がり、
   ケロイドが体を蝕んでいた平賀さんの運命を変えたのは、
   食養(マクロビオティック)の世界的権威・
   桜沢如一氏との出会いだったといいます。
────────────────────────────────────
  「被爆をこえて生きる」

        平賀佐和子

 『致知』2012年4月号
  特集「順逆をこえる」より
                      http://www.chichi.co.jp/feature/
────────────────────────────────────
就職して2年目の頃だったと思います。

「広島で桜沢如一先生の講演会があるから
 一緒に行ってみましょう」
と、ある方から講演会に誘われました。

講演終了後、私は桜沢先生に挨拶に行きました。
私の顔を見るなり、桜沢先生の第一声はこうでした。

「うわぁ、汚い顔だねぇ~」

当時、私は肝臓の異常から顔に吹き出物がたくさん出ていて、
自分でも気にしていたのです。
周囲の人は誰も口にしませんでしたが、
それを面と向かって言われ、さすがにショックを受けました。

「私は原爆に遭っているので」と言うと、

「原爆症というものはありません」。

桜沢先生が私に向かって言われた言葉には驚きました。
そして、さらにショッキングなことを言われました。


「あなた、いまのままの生活を続けたら3年以内に死ぬよ」

「どうすればいいのでしょうか」

「七号食(玄米だけ。ごま塩は可)にしなさい」


それから、家に帰るなり白砂糖を捨て、余分なものを一切食べず、
白米を隣のお家に差し上げて、完全玄米生活を始めました。
家でも学校でも玄米だけ、お味噌汁も飲みません。

七号食は、食養の常識では10日間で一区切りなのですが、
詳しいことを知らずに始めた私は、1か月間も続けたのです。

その間、53kgあった体重が42kgまで減り、
顔中の噴火口も次第に消え、明らかに体調の変化が出てきました。

※詳しくは『致知』4月号(P22~27)をご覧ください。
http://www.chichi.co.jp/feature/
…………………………………………………………………………………
『致知』4月号の感想が届いております
…………………………………………………………………………………
 平賀佐和子さんの原爆の描写、あまりにすごくて
 この文章はずっと残しておかなければと思いました。

 七号食(※玄米だけ。ごま塩は可)は
 私にはとても出来そうにありませんが
 玄米食の力は本当に素晴らしいですね。

 梅干しの力も素晴らしくて益々梅干しが好きになりました。
 平賀さんの益々の御健康を祈ります。

               (京都市・71歳 主婦)
…………………………………………………………………………………
 月刊『致知(ちち)』は、昭和53年の創刊以来、
 33年間、いまの時代を生き抜くためのヒントを満載し、
 皆さまの人間力・仕事力アップに役立つ記事をお届けしております。

 まだ『致知』をお読みでない方は、
 ぜひ定期購読をおすすめします。
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「ごめんなさいね おかあさん」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月23日(金)17時42分5秒
返信・引用
  本日は『致知』2002年9月号より、
重度の脳性マヒで、全身が不自由、口も利けないやっちゃんが、
命のたけを託して作った詩と、そのお母さんの詩との
感動のやりとりをご紹介します。

      ぜひ最後までお読みください。
────────────────────────────────────
 「ごめんなさいね おかあさん」

     向野幾世(奈良大学講師)
     『致知』2002年9月号より
────────────────────────────────────

 ごめんなさいね おかあさん

 ごめんなさいね おかあさん

 ぼくが生まれて ごめんなさい

 ぼくを背負う かあさんの

 細いうなじに ぼくはいう

 ぼくさえ 生まれなかったら

 かあさんの しらがもなかったろうね

 大きくなった このぼくを

 背負って歩く かなしさも

「かたわな子だね」とふりかえる

 つめたい視線に 泣くことも

 ぼくさえ 生まれなかったら



 ありがとう おかあさん

 ありがとう おかあさん

 おかあさんが いるかぎり

 ぼくは生きていくのです

 脳性マヒを 生きていく

 やさしさこそが 大切で

 悲しさこそが 美しい

 そんな 人の生き方を

 教えてくれた おかあさん

 おかあさん

 あなたがそこに いるかぎり



この詩は、いまから27年前、
15歳で亡くなった山田康文くん――
やっちゃんが作った詩です。

重度の脳性マヒで、全身が不自由、口も利けないやっちゃんが、
いのちのたけを託して作った詩です。

私が勤めていた奈良県立明日香養護学校に
やっちゃんが入学してきたのは昭和43年、
彼が8歳の時でした。

以来、担任として、学部主事として、
そして最後は言語訓練教師として
足かけ8年の付き合いでした。

この詩が生まれたのは、やっちゃんが亡くなる、
わずか2か月前のことでした。

当時私は、養護学校卒業後の障害者たちが集える
「たんぽぽの家」をつくろうと、障害児のお母さん方とともに、
「奈良たんぽぽの会」を結成していました。

この運動もいまではOLや学生など若者たちの支持を得て、
全国で4,000人の会員を擁する全国運動に盛り上がっています。

その活動の一環として、養護学校の生徒の詩に
フォーク好きの学生さんが曲をつけ、
奈良文化会館の大ホールで
コンサートをする企画が持ち上がったのです。

障害程度の軽い子は、自分で詩を書くことができます。
文字が書けない子でも、手足の指や口を使って
電動タイプを打つことができます。

しかし、やっちゃんのように重度の子の場合は、
先生である私が抱きしめて、全身で言葉を聞くのです。


私が言う言葉がやっちゃんの言いたい言葉だったら、
やっちゃんはウインクでイエスのサインを出します。

ノーのときは下を出す。脳性マヒの緊張や
アテノーゼ(不随意運動)さえも、
やっちゃんの発する意思表示です。

そうやって時間をかけてやっちゃんの言葉の世界に
近づいていく作業が始まりました。


言語訓練をしていた私の手元には、
一人ひとりの子どものノートがありました。

やっちゃんのノートには、どのページも


「ありがとう」

「おかあさん、ごめんね」

という2つの言葉で埋まっていました。


最初は『ごめんね おかあさん』
これを題にしようかと私が言うと、
“ノーノー、いやだ”と舌を出します。

それじゃ、男らしく
『ごめんよ かあさん』これはどう?と言うと、
またノーのサイン。

今度は上下を逆にして、
『かあさん ごめんよ』とやってみます。

どうもピッタリこないんだなあ、というやっちゃんの顔。

私の頭に浮かぶ限りの言葉の組み合わせの中から、
やっと、やっちゃんがウインクでイエスのサインを出したのは、


『ごめんなさいね おかあさん』

でした。


こうやって何か月もかけてやっと前半部分ができた時、
やっちゃんのお母さんに見てもらいました。

読み終えてもお母さんは無言でした。

ただ目頭を押さえて、立ちつくしていました。


「やっちゃんが、これを……」

と、かすかに言われたように思います。

そのせり上がる思いが私にも伝わってきました。


『わたしの息子よ』と呼びかけたお母さんの詩が
私の手元に届いたのは、すぐ次の日のことです。
今度は私が立ちつくしました。


 わたしの息子よ ゆるしてね

 わたしのむすこよ ゆるしてね

 このかあさんを ゆるしておくれ

 お前が 脳性マヒと知ったとき

 ああごめんなさいと 泣きました

 いっぱいいっぱい 泣きました

 いつまでたっても 歩けない

 お前を背負って歩くとき

 肩にくいこむ重さより

「歩きたかろうね」と 母心

“重くはない”と聞いている

 あなたの心が せつなくて



 私の息子よ ありがとう

 ありがとう 息子よ

 あなたのすがたを見守って

 お母さんは 生きていく

 悲しいまでの がんばりと

 人をいたわるほほえみの

 その笑顔で 生きている

 脳性マヒの わが息子

 そこに あなたがいるかぎり


 このお母さんの心を受け止めるようにしてやっちゃんは、
 後半の詩づくりにまた挑んだのです。

 やっちゃんが言う「ごめんなさいね」は、
 母へのいたわりと思いやりがあふれていました。

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 「本当はこんなに強かった日本の農業」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月22日(木)11時58分23秒
返信・引用
  ●「被爆をこえて生きる驚異の75歳・平賀佐和子さん」

    東日本大震災から丸一年が経過したいまもなお、
    福島第一原発事故は収束の兆しを見せず、
  放射線による人体への影響が懸念されています。

  そんな中、私たちは放射線とどう向き合い、
  どう対処していけばよいのでしょうか。

  ここに紹介する平賀佐和子さんの実例は
  私たちが生きていく上での
  大きな示唆を与えてくれています。
  http://www.chichi.co.jp/feature/3330.html


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   皆さまの人間力を高めるエピソードを
   厳選してご紹介しています。

       * *

   本日はベストセラーとなった
   『日本は世界5位の農業大国』著者で、
   農政に鋭い提言をされている
   農業技術通信社専務・浅川芳裕氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
 「本当はこんなに強かった日本の農業」

   浅川芳裕(農業技術通信社専務)
 『致知』2012年3月号
  連載「意見・判断」より

────────────────────────────────────
 2000年に農業技術通信社に転職した私が、
 初めに行ったのは農業の市場規模調査である。

 その結果分かったのは、
 日本は世界第5位の農業大国であること。

 農業生産額は約8兆円で、これは
 中国、アメリカ、インド、ブラジルに次ぐ数字だった。


 日本の農業は衰退産業であるといわれて久しいが、
 これが実態と遊離していることはスーパーに行けば一目瞭然だ。
 店内には1年を通じて豊富な農産物の食材が並び、
 その多くは国産表示である。

 ではなぜ日本の農業がこれほど強くなれたのか。
 次の5つの観点から考えてみると分かりやすい。

●まず、国土が南北に長く、高低差に富み、
 四季折々の農産物を1年を通じてつくれること。

●次に、日本が先進国であること。

 法治国家で貨幣も安定し、物流等のインフラが整っているため、
 農産物の生産から販売までが混乱なく行える。

 鮮度を保てるクール宅配便や、
 カード決済の可能なネット通販が普及していることなども
 農家が自立できる一要因である。

●3つ目に、国民の購買力が高いこと。

 不況とはいえ日本人の所得は世界全体で見れば高水準。
 日本の生産量が世界トップレベルにある作物を見ると、
 イチゴやメロン、桃など単価の高い嗜好品が
 ウエイトを占めているのが特徴である。

●4つ目に、独自の食文化を持っていること。

 食生活がいくら洋風化したとはいえ、
 和食の地位は確固たるもので、
 特に米に対するこだわりは世界にも類を見ないほど。

 さらに、中華、イタリアン、フレンチなど、
 多様な食文化を取り入れる消費者のおかげで、
 農家もバリエーションに富んだ新食材をマーケットに導入できる。

●5つ目は、産業技術や農業技術のレベルが高いこと。

 日本には最新の機械工学やバイオテクノロジーなどが
 揃っており、車の開発技術をトラクターに応用したり、
 環境制御技術をビニールハウスに活用することもできる。

 中でも品種改良技術は世界トップクラスで、
 イチゴを例に挙げてみると、世界に約600ある登録品種のうち、
 180種以上は日本の保有で世界一。

 また、農業に関する研究も、各県に農業試験場や
 農業高校、国立大学に農業学部があるなど、
 世界における農業研究開発予算のうちの
 実に約3割を日本が占めているのである。
…………………………………………………………………………
 日本の農業には圧倒的な強みがありながら
 その正味の実力に多くの人が気づいていないのはなぜか?
「食料自給率40%前後」という数値のカラクリとは?

 詳しくは3月号「意見・判断」のページをご覧ください。

 ※『致知』をお読みでない方は、
  3月号からの購読開始も承りますので、
  ぜひこの機会にお申し込みください。
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[青春]

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月22日(木)07時52分49秒
返信・引用
  青  春

                  サミュエル・ウルマン原作
                  松永安左エ門翻訳

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
 逞(たくま)しき意思、優れた創造力、炎ゆる情熱、
 怯懦(きょうだ:臆病で氣の弱いこと)を却ける勇猛心、
 安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
 歳を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
 苦悶(くもん:苦しみもだえる)や狐疑(こぎ:ある事に臨み、疑って躊躇うこと)や、
 不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、
 精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。
 歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
 曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星晨(せいしん:星)、
 その輝きにも似たる事物や思想に対する欽迎(きんぎょう:うやまい慎む)、
 事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑念と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
  希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
 そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
 この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。

http:// 

 

もう直ぐ累計5000名に・・・。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月21日(水)18時57分16秒
返信・引用
  「みんなの瓦版」を覗く方、投稿する方の累計がもう少しで5000名になります。
累計5000名が多いのか少ないのかはわかりませんが、感慨深いものがあります。
なかなか成長できないのですが、死ぬまで勉強だという氣持ちを持ち続けていきたいものです。
人間学というジャンルを拓いてきた月刊誌致知との出会いは今を去ること13年前になります。
ある整備工場の社長さんが私に勧めてくれたのが、この「人間学誌致知」という雑誌でした。
感動する話と出逢い、素晴らしい人生を送っている人と出逢い、感動する言葉に出逢い
自分自身を叱咤激励してきました。
この掲示板を利用させていただいて致知で採り上げられた話を中心に紹介して参りました。
今まで知らないできたことがいかに多かったのか改めて感じ入っています。
「青春」という詩もあります。
いつまでも「青春」の氣持ちを持ち続けていきます。

http:// 

 

 「高い塔を建ててみなければ、新しい水平線は見えない」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月21日(水)10時07分37秒
返信・引用
  あの感動秘話をFacebookで公開中

  ●「雪絵ちゃんとの最後の約束」

    山元加津子さん(かっこちゃん)と
    雪絵ちゃんとのあの感動秘話を、Facebookで公開中。
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     致知出版社の「人間力メルマガ」

       【2012/3/21】 致知出版社編集部 発行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 昨年夏、7年60億キロの宇宙旅行を終えて帰還した
 小惑星探査機「はやぶさ」。

 その偉業を支え、完遂させたプロジェクトチームの
 マネージャー・川口淳一郎さんをモデルにした
 渡辺謙さんの主演映画『はやぶさ 遥かなる帰還』が
 2月より上映され、大きな話題を呼んでいます。

 本日は『致知』2011年12月号に、
 掲載された川口氏の記事の一部をご紹介します。

●「はやぶさ」とは?
⇒ http://www.chichi.co.jp/monthly/201012_pickup.html#pick2
────────────────────────────────────
 「高い塔を建ててみなければ、
   新しい水平線は見えない」


  川口淳一郎
 (宇宙航空研究開発機構「はやぶさ」プロジェクトマネージャ)

   『致知』2010年12月号
    特集「発心、決心、持続心」より
    http://www.chichi.co.jp/monthly/201012_pickup.html#pick2
───────────────────────────────────
「はやぶさ」プロジェクトは、
 確かに我々には大ジャンプでした。

 自然科学の分野に限らず、人文社会でも、
 そういうハイリスク・ハイリターンの計画は
 運に支配されるものだと思いますが、
 次の段階に進むためには同じことをなぞってばかりでなく
、大ジャンプをしてみなければダメですよね。


 そこで大事になるのは、やはり具体的で
 分かりやすい目標を共有していること。
 「はやぶさ」でいえば、
 「ゴールは地球へのサンプルリターン」
 ということを全員一致で理解していた。
 これが大きかったと思います。

 また、その上でどんな時でも
 私が最後まで目標をブレさずにいたのが良かったと思います。
 リーダーでしたからね。

 それは闇雲に妄信するということではなく、
 状況を客観視して打つべき手を打っていく。
 誰よりもです。

 だけどどんな状態であっても、
 「もうダメだ」とか「この辺で十分じゃないか」と思わず、
 最終ゴールを指し示すことが
 大事だったのではないかと思います。

 そして、いい意見であれば立場にとらわれず、
 積極的に採用する土壌がチーム内にあったことも、
 チームの強さに繋がったかなと感じています。

        (中略)

 私はよく
 「高い塔を建ててみなければ、新しい水平線は見えない」

 と申させていただくのですが、いまのレベルに安住して、
 足元を固めることばかりに一所懸命になっていたら、
 絶対にその先にある地平線は見えません。

 私たち「はやぶさ」プロジェクトも
 客観的に見れば成功するかどうかは未知数でした。
 まして途中ではいろんなトラブルがあって、
 帰って来られる可能性はものすごく低かったわけです。

 失敗するかもしれない。
 途中で壊れてしまうかもしれない。

 それでも前人未踏の境地に挑戦しようと発心し、
 一度やると決めたら挫けずに、ゴールを目指し続ける。
 それがこのプロジェクトを成し遂げられた
 要因ではないかと思います。

「未来」とは「未だ来ない」と書きます。
 未来は見えないわけです。
 その水平線の向こうの、見えないものを
 自分たちの手で見ようとする活動が未来をつくるのです。

 この「はやぶさ」の挑戦を通して、
 先人の後を追うだけでなく、
 誰も成しえなかったことに挑戦する世界があることを、
 日本の若い人たちに伝えられたらと思っています。

●「はやぶさ」とは?
http://www.chichi.co.jp/monthly/201012_pickup.html#pick2

http:// 

 

「きょうようがありますか?」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月19日(月)18時05分0秒
返信・引用
  今日もまた学びました。
「きょうよう」がある人は幸せです。

(↓ここから本文です↓)

「命の授業」の腰塚勇人です

先日、大切な方から
「腰塚さんは、きょうようがありますか?」と訊ねられました

「少しは・・・」と答えました

「では腰塚さん、きょうようという漢字書けますか?」 と

「教養」と書きました

するとその方は

「教養とは『今日用』と書くんですよ」

今日、用がある人
そしてようは用より「要」

きょうようがある人とは
今日+要がある人


すなわち、「今日」誰かに必「要」とされている人

「今日要」のある人は人生が栄える

それをただひたすら損得考えずに
一所懸命にするだけ

それだけで人生は栄える

私にも私を必要としてくれる人がいます
その方たちの顔を思い出すだけで嬉しくなります
大切にしようと思えます

「栄える」って
感謝や幸せを感じて生きていけることなんだと
感じたときでした

今週も毎日を大切に生きていけそうです

感謝を込めて

http:// 

 

「仕事に悩んだ時の三つの対処法」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月18日(日)18時12分5秒
返信・引用
  「仕事に悩んだ時の三つの対処法」

一つ目は
その仕事を辞めて
自分が打ち込めると思う仕事を新たに探すこと。

二つ目は
道楽の世界を持つこと。

三つ目は
考え方を変えてみること。

これについては、私はよく元首相の吉田茂さんの逸話を
例に出して話しています。
それは吉田茂さんが青雲の志を抱いて
外交官になったばかりのころの話です。
吉田さんが最初に命じられた仕事は
テレックスの伝達係だったそうです。
テレックスがとどいたら、
それを大臣のところに持っていくわけです。
それが吉田さんには不満だったのです。

「最高学府を出て公文試験に通って外務省に入ったのに、
 なんでこんなつまらない仕事をやらなければいけないんだ」

そして、義父にあたる牧野伸顕公に手紙を書いて、
その思いを切々と綴りました。
すると牧野公から返事が戻って来ました。
吉田さんがその手紙を読むと、こんなことが書いてありました。

「君は何と馬鹿なことを言っているんだ。
 大臣よりも先に国家の重要な情報を
 見る事ができるのだよ。
 それを見て、君はどう判断するのか、
 大臣はどう判断しているのか、
 その判断の結果はどうなっているのか。
 君はまたとない勉強のチャンスを得ているじゃないか。
 こんなありがたいことはないよ」

手紙を読んでいるうちに、
吉田さんは自分が間違っていたことに気づき、
つまらないと思える仕事でも
一所懸命に取り組むように変わっていったのです。
このように、心の置きどころを変えてみると、
視野が開けて仕事への考え方や取り組みが変わる場合があります。
悩んでいるときは、どうしても視野が狭くなりがちです。
そう言う時に自分の仕事を客観的に眺めてみると、
気分が変わって、やる気が湧いてくるものなのです。

出典:何のために働くのか
著者:北尾吉孝(SBIホールディング代表取締役CEO)
出版社:致知出版社

http:// 

 

「四運(しうん)を一景(いっけい)に競う」青山俊董(曹洞宗尼僧)

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月17日(土)20時08分45秒
返信・引用
  青山俊董(曹洞宗尼僧)


(『致知』2004年9月号 特集「恕」より))
(人生で一番大事だと思うことを
 一つだけ挙げてほしいとお弟子さんに聞かれたら、
 何とお答えになりますか?)

「慈悲」や「恕」以外でなら、
私がよく好んでサインするのは、

「投げられた ところで起きる 小法師(こぼうし)かな」

です。起き上がり小法師、つまり達磨さんが
ボーンと投げられたそこがいかなる場所であろうとも、
正念場として起き上がる。

腰を据えてまっすぐ正面を見据える、という意味です。

われわれはだいたい人生がうまくいかないとぐずったり、
うまくいくとのぼせ上がったりして、年中姿勢が崩れます。

しかし、いかなる場所でもぐずらない、
追ったり逃げたりしない、のぼせ上がらない、ダウンしない。
どういう状態であっても、しゃきっと姿勢を正せという意味です。

        * *

同じような意味で、

「四運(しうん)を一景(いっけい)に競う」

という道元禅師の言葉もあります。

四運というのは、季節で言ったら春夏秋冬。
人生で言ったら生老病死。

人生はいろいろ移り変わっていきます。

愛する日もあれば、憎しみに変わる日もある。
成功する日もあるし、失敗する日もある。
寒風吹きすさぶような中で
じっとしていなければならない日もある。

その時、多くが一喜一憂して、
追ったり逃げたりするわけです。

しかし一景というのは
「同じ姿勢」という意味で、
生も死も健康も病気も愛も憎しみも成功も失敗も、
全部同じ姿勢で受け止めよということですね。

だいたい、人生の移り変わりなんて
一目では見えませんからね。
愛する日は憎む日がくるとは思えない。
健康な日は病気で苦しむ日がくるとは思えませんでしょ。

いかなることが起こっても、そこで姿勢を正す。
人生なんていろいろあったほうが豊かでいいんです。

人生の調度品を揃えるような気で
楽しませてもらいましょうと思っています。

http:// 

 

[青春] 

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月17日(土)18時10分55秒
返信・引用 編集済
  青  春

                  サミュエル・ウルマン原作
                  松永安左エ門翻訳

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
 逞(たくま)しき意思、優れた創造力、炎ゆる情熱、
 怯懦(きょうだ:臆病で氣の弱いこと)を却ける勇猛心、
 安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
 歳を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
 苦悶(くもん:苦しみもだえる)や狐疑(こぎ:ある事に臨み、疑って躊躇うこと)や、
 不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、
 精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。
 歳は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
 曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星晨(せいしん:星)、
 その輝きにも似たる事物や思想に対する欽迎(きんぎょう:うやまい慎む)、
 事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

  人は信念と共に若く 疑念と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
  希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
 そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
 この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。

上記の翻訳はコーネル大学ルイース教授のものを翻訳したものです。
サミュエル・ウルマンの原詩は下記の通りです。

Youth

Youth is not a time of life,
it is a state of mind.
It is not a matter of rosy cheeks, red lips and supple knees,
it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions,
it is the freshness of the deep springs of life.
Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite,
for adventure over the love of ease.
This often exists in man of sixty more than a boy of twenty.
Nobody grows old merely by a number of years . We grow old by deserting our ideals.
Years may wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles soul.
Worry, fear, self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.
Whether sixty or sixteen, there is in every being's heart the lure of wonder, the unfailing child-like appetite of what's next, and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is wireless station, so long as it receives message of beauty, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.
When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism, then you are grown old, even at twenty, but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty.

http:// 

 

「森繁久彌(俳優)さんからの質問」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月14日(水)17時28分38秒
返信・引用
  森繁久彌(俳優)さんが母校に行って講演をしました。
そのときの話です。

(↓ここから本文↓)

森繁久彌(俳優)

(『致知』2001年7月号 特集テーマ「涙を流す」より)

私が卒業した大阪の北野中学校から以前、
講演に来てくれって言われたの。
講演する材料がないんで、じーっと汽車に乗りながら
考えてたんです。

それで、そうだ、と。

で、演壇に上がっていきなり、

「あなた方はいくつになりましたか」

と聞いた。そんなことは聞かなくても
中学二年生か三年生か、大体わかるけれども。

続けて、

「その歳になるまで、
 君らはどれだけの人を動かしているかわかるか?
 君、答えてみなさい」

って言ったら、

「まあ百人ぐらいですか」

と言う。

とんでもない話です。
一人の人間が生きていくためには、
何十万の人間が動員されてるわけです。

長いことかかって肥やしやったり、水やったりして、
野菜を作ったり、米作ったり。
そればっかりじゃなくて、中には海山に入って魚釣ったり、
牛飼ったり、豚飼ったり、いろんなことをしている。

「それじゃあ、君たちはそれがわかったら、
 それだけの人間に対して一遍でも感謝をしたか?

 何かお返しをしたか?

 どうだ、おい」

そう言ったら、みんなちょっとがっくりきちゃってね。
あんまり返してないらしいんだ(笑)。

だからね、そういう人間を動員して
自分が大きくなってきたということを、
もうちょっと意識したほうがいいんじゃないかということを
言ったんです。

そしたらね、二、三日たったら、
私のうちのベルを鳴らして一人の少年が入ってきたんです。
それはね、そのときに聞いてた男の子なんです。で、

「こんな時間に申し訳ありませんが、
 ちょっとお話がしたいんです」

「ああ、どうぞ。どういうことですか?」

「いや、僕はちょっと盲点をつかれたような気がしました。

 実は私はもう死のうと思ってました。
 自殺したいと思ってました。
 でも思いとどまりました。

 あなたのお話からです」

って。

僕はそんないい話はした覚えはないんでね。

でもその子からうまく家の電話番号を聞きだしてね、
電話をして、

「ここで預かってるから来てくれ」

って迎えにきてもらった。

結局、その後その少年も大きくなりました。

だから、あんまり難しく考えなくていいんじゃないかな。
ハッと気がついたら、それだけ進歩したんだから。

http:// 

 

坂村 真民(仏教詩人)さんの詩

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月11日(日)09時55分9秒
返信・引用
   光が射しているのに
 あなたはそれを浴びようとしない
 呼んでおられるのに
 あなたはそれを聞こうとしない
 手をさしのべておられるのに
 あなたはそれを握ろうとしない
 お経にもそんな人のことを
 書いてあります
 どうか素直な心になって
 二度とない人生を
 意義あるよう生きて下さい


『坂村真民一日一言』より(致知出版社刊)

http:// 

 

「最期のメール」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月11日(日)09時41分9秒
返信・引用
  人間は人生最期の時に誰に何を伝えたいのか!
東日本大震災の被災者姉妹が携帯メールに残した「最期のメール」です。

http://yaplog.jp/takimotokousei/archive/616

http:// 

 

「幼児教育に懸ける」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月11日(日)08時40分51秒
返信・引用
  孫を預けるならばこんな理念のある幼稚園に預けたいですね。
そしてこのような幼稚園がこの国にあることが誇りでもあります。

(↓ここから本文です↓)

本日は『致知』2005年11月号より
風の谷幼稚園園長・天野優子先生の
随想記事をご紹介します。
─────────────────────────
■「致知随想」ベストセレクション
─────────────────────────
 「幼児教育に懸ける」

 天野優子(一廣学園 風の谷幼稚園園長)

『致知』2005年11月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
………………………………………………………………………………………………
 いま、入園児募集の際に受ける質問の多くは、
 次のようなものです。


 「スクールバスはありますか」

 「給食はありますか」

 「預かり保育はありますか」


 問われているのは教育の中身ではありません。
 子育てを人まかせにし、自分たちの負担を
 少しでも減らしたいという感じのものが多いのです。

 これは親による無意識の「子捨て」ではないでしょうか。


 いまから八年前、五十歳を過ぎていた主婦の私が、
 三億円の借金をして立ち上げた風の谷幼稚園。

 十四年間の幼稚園勤務の経験以外に、土地も資金もない状態。
 地主さんに土下座をしたり、役所では
 たらい回しの目にも遭いましたが、
 そんなことは問題ではありませんでした。

 設立の動機は、人が人として育っていきようがない、
 そんな幼児教育の現状に、強い危機感を覚えたからです。

 子どもたちに「誇りをもって生きていってほしい」と
 いうのは私たちの願いです。

 しかしいま、大人も含め、多くの人々が強い不安感や
 自己否定感を抱えて過ごしています。
 私はその主な要因は、自分というものを
 きちんと確立できていないという
 自信のなさにあると考えています。


 幼稚園を始めた頃のこと。

 年長児に、小さい子の面倒を見てほしいと頼んだら、


 「なんで俺たちがしなきゃいけないの?
  こっちだってしたいことがあるのに」


 といわれ、強いショックを受けました。
 ところがその彼らに、嫌々ながらであれ
 面倒を見てもらった子たちが年長になった時のことです。

 幼稚園から一キロ余りある尾根道を伝っていくと、
 広い芋畑に着きます。
 子どもたちはその芋を掘りたいだけ掘ってよいのですが、
 全部自分で持ち帰ることが約束事。

 年長児は皆、体重の半分もある芋を背負っているにもかかわらず、
 年少児の手をちゃんと引いて帰ってくるではないですか。
 理由を聞いてみると、


 「これまで自分たちがしてもらったから」。


 これは私にとって、目から鱗が落ちる体験でした。

 つまり、人は自分がしてもらったことを決して忘れず、
 その受けた行為を必ず誰かに返していくものなのです。

 大切なのは、それを言葉ではなく、
 具体的な行為を通して体験させていくということです。


 私は、人は白紙の状態で生まれてくるものだと考えています。
 子どもたちはその状態に、周りから
 さまざまなものを吸い取って色をつけていきます。

 赤ちゃんの時から始まる、
 快、不快を中心とした「感覚」。
 その感覚が点で集まっていき、感性が形成されていく。

 次にその感性が、価値観へとつながり、
 やがては人生観をつくっていく。

 だからこそ、その基となる「感覚」の部分に、
 どんなよい情報や体験をインプットさせるのか、
 それを丹念にやろうと考えているのです。


 それではもう一つ、木工作を例に挙げてみましょう。

 子どもたちには三歳の時から金づちと釘を使わせ、
 車などの遊び道具を作らせます。
 当然初めはうまくいきません。

 釘が曲がってしまったり、板からはみ出てしまったり。
 そんな時は「釘を抜けば、また打てるんだよ」と声をかける。
 それで穴ぼこだらけになったなら、板をひっくり返せばいい。

 おかげで、風の谷幼稚園の子どもたちの中には
 「失敗」という言葉がありません。

 そうやってうまくいかなかった時に、
 まだ可能性があるはずだ、何かいい方法があるはずだと
 発想できる力を身につけることが、
 生きる上で大切になってくるのです。

 だから縄跳びでも、体の未発達な四歳の時期に
 あえて「できない」という事実にぶつけさせ、
 課題をクリアするための方法を分析させます。

 以前、子どもたちにカルタ作りをさせたところ、
 こんな読み札を作った子がいました。


「やればできると思えばできる」


 皆より体も小さく、つまずきながら進んできた子でしたが、
 私はそれを見て、もう卒園したっていいよと思いました。
 それさえ分かっていればどこへ行っても大丈夫。

 幼児期とはそうした経験の積み重ねの中から、
 揺るがない自己をつくっていく期間でもあるのです。


 しかしながら現在、幼児教育を取り巻く状況は惨憺たるもので、
 私のやっていることなど焼け石に水にもならないと、
 悲観的になってしまうことがあります。

 冒頭にも触れた、上の世代から伝わってくるもののなさ。
 人間は、人間が愛情を持って育てない限り、
 ちゃんとした人間にはなれないものなのです。

 それでも自分にできる精一杯のことはやる。
 幼稚園を立ち上げる時、三億円のお金を借りるため、
 夫の実家も何も全部担保に入れ、
 以来十年近く無給で働いています。

 人を信頼することが難しい世の中において、
 そうした私の行為は多くの人に
 「本気」として映るようです。

 だから、なまじ給料なんて
 もらわなくてよかったと思っています。


 開園当初は、絆創膏を買うお金もなかったこの幼稚園に、
 いま年間四百万円近くの寄付金が集まります。
 来年、その集まったお金で、
 幼稚園のそばに五百坪の土地を買い、
 自然の広場を作る予定です。

 私たちの理念に共感してくださり、
 現在では入園のために
 他府県から家族ごと引っ越してこられるケースも
 珍しくありません。

 光が一杯に溢れ、風が流れる幼稚園。
 この場所が子どもたちの
 よきふるさとになってくれることを願っています。

………………………………………………………………………………………………
  各界リーダーから『致知』へのメッセージ
………………………………………………………………………………………………
■武田双雲氏(書道家)

  『致知』の好きなところは、
 まず、オンリーワンなところです。

  似たような雑誌が1つもないという、
  その独自性がすごく好きだし、
  編集方針が一貫していて、本当に日本をよくしようと
  思っている本気度が伝わってくる。

 “人間”を感じる雑誌。ものすごく人肌を感じます。
 『致知』は雑誌の中で1番激しい、
  ロック魂にあふれた雑誌だと思っています。

【その他、リーダーからのコメントはこちら】
http://www.chichi.co.jp/leader/index.html

http:// 

 

「妻を褒めよう」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 9日(金)16時10分48秒
返信・引用
  毎度有難うございます!
ラジオでも有名な子育て評論家(親野智可等:おやのちから)の3年前の日経BPサイトでのコラムを紹介します。東日本大震災から1年経ったこの時に家族関係を見直すきっかけにして頂ければ幸いです。
チョット長文です。

(↓ここから本文↓)

[妻を褒めよう]

親野智可等(おやのちから)
日経BP社SAFETY JAPANコラムより
2009年2月20日


  わたしは小学校教師の頃、連絡帳などを書くときに、子どもだけでなく、その親を褒めるよう努めていた。すると、あるお母さんがこんなことを書いてくれた。「先生、私は母親になってから初めて褒められました。有難うございます」。

  懇談会で話したら、ほかの多くのお母さんたちも「褒められたことがない」と言い出し、その話題で盛り上がったことがある。

  お母さんたちは結婚前、或いは出産前までは、いろいろな場で褒められるが、いざ子どもを持つと、「ちゃんと育ててあたりまえ」「うまく家事を切り盛りして当たり前」と、褒められる機会がなくなってしまう。

  学校でも先生方は、子どもを褒めても母親までは褒めない。お父さん方も妻を褒めないし、おばあちゃんやおじいちゃんも褒めてくれない。

  世の中の多くのお母さんたちは、「こんなに頑張っているのに、どうしても誰も褒めてくれないのかしら」と本音で思っている。


[褒めるきっかけ作り、仕組み作り]

  だから、このコラムを読んでいる男性方は奥さんを意識的に褒めようではないか。

「自分だって妻に褒められたことがない」とか「子育てや家事も大変だろうが、こっちだって仕事が大変なんだ」と思うかもしれないが、そんなケチなことは言わず、心を広く持とう。まず「隗より始めよ」だ。

  子どもと一緒にいる時、「○○(子供の名)に笑顔が多いのはママのお陰だな」とか。「元氣に毎日働けるのも、君のお陰だ」「君が元氣に家を守っているから、仕事を頑張れるよ」など、できれば1日1回、少なくとも1週間に1回は褒めよう。

  といっても、簡単な決意だけでは人間、なかなか続かないし、そもそもやり慣れないことは始めにくい。そこで、妻を褒めやすくする工夫や仕組みを考えよう。

  例えば、仕事で使っている手帳に「妻を褒めるスケジュール」を書き込む。1日おきとか、少なくとも週1回、褒める日をつくってスケジュールに入れておく。或いは粘着メモで貼り付けておいてもいい。

  携帯を活用する手もある。携帯のアラーム機能を使って、毎週○曜日の○時になると、音楽やアラームが鳴り、妻の笑顔の画像が出るようにしておくわけだ。

  また、インターネットのポータルサイトのYahoo!をはじめ、検索サイトやGoogleにはカレンダー機能があり、特定の時間に自分宛にメールを送る「リマインダー」というサービスがあるので、それを使って「さあ、妻を褒めよう」とメールを送ってはどうだろうか。

  さらに、携帯やPCのメールで、奥さんに褒め言葉を送るという方法もある。「今日は7時に帰るよ。いつも有難う」などと、帰り際に簡単なメールを送って、さりげなく感謝の氣持ちを込めよう。

  メールだと、恥ずかしくて口に出せないことも書けるので、使い様によっては夫婦関係、親子関係の円滑化に効果的だ。


[愚痴を黙って聴くことも大切]

  褒めるきっかけが掴めない時は、奥さんや子供の誕生日、結婚記念日、出産記念日などを活用しよう。花束やちょっとしたプレゼントと一緒に、感謝の氣持ちを記したカードを贈ったり、「いつも有難う」と言い添えたりすれば、奥さんも喜ぶだろう。

  褒めることと並んで、お母さん方の愚痴を聴くことも大切だ。

  実は、私の妻も小学校の教師で、今も続けている。毎日、いろいろなことがあり、ストレスをいっぱいため込んで帰ってくるので、私は時間がある限り、妻の愚痴や話をひたすら聴いている。その時、受容的・共感的な態度で聴くことが大切だ。

  ところが、男というものは(私もそうだが)、ついつい意見したりアドバイスしたりしたくなる。「それじゃ、△△した方がいいんじゃないか」とか「それなら、辞めた方がいい」とか、「もっと建設的に考えろ」などと言いたくなる。でも、それをぐっと我慢して、「うん、うん、大変だな」「そういうの困るよね」「それは頭に来るよね」などと聞き役に徹する。

  お母さんたちの多くの場合、解決策を求めているのではなく、夫に聴いて欲しいのだ。氣持ち良く話せれば、ストレスが開放される。それを途中で遮って意見やアドバイスをすることは、ほとんどの場合、逆効果だ。

  これを実践すれば、ギクシャクしていた夫婦仲も良くなることは確実だ。


[夫婦・親子関係は、仕事上の関係より大切]

  さらに加えて言えば、家事や子育ての分担もできる限り行おう。

  奥さんを褒めたり癒したりすることは、自分のためにもなる。にこやかに会社に送り出してもらえれば、自分も仕事を頑張れる。

  また、夫婦間が良くなれば、子供にも大きなプラスになる。

  最近では、子供が巣立つや否や離婚を言い出す妻も多いという。「この人の介護だけはしたくない」と思うらしい。そういうケースは、やはり奥さんを褒めたり癒したりするのが足りなかったのかも知れない。

  夫婦関係と親子関係は人生で最も大事な関係で、一生続くものだ。一方、同僚や得意先との関係は、多くの場合、一時的なもので退職すれば関係が消える。それなのに、同僚や得意先との関係作りには最大の努力をし、夫婦関係や親子関係はおざなりという人もいる。

  夫婦関係や親子関係の大切さを再認識して、そちらをもっと大事にして欲しい。そのために、仕事で得た人間関係についての智慧やノウハウを是非活用して欲しい。

(長文を最後までお読み頂き有難うございました:「青春一直線!」)

http:// 

 

「一途一心」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 5日(月)19時20分21秒
返信・引用 編集済
  ↓ここから本文↓

本日の日経新聞朝刊に一面広告を掲載させていただきました。
http://www.chichi.co.jp/3512.html

「いつの時代にも、仕事にも人生にも
 真剣に取り組んでいる人はいる。
 そういう人たちの心の糧になる雑誌を創ろう」

この創刊理念のもと、昭和53年に産声をあげた『致知』は、
おかげさまで昨年、創刊33周年を迎えることができました。
読者の皆さまに厚くお礼申し上げます。

       * *

さて本日は、新聞広告の中で紹介されている文章
「一途一心」 を人間力メルマガ読者の皆様にもお届けします。
────────────────────────────────────
         「一途一心」

                 『致知』2012年2月号
                  総リードより
                         http://www.chichi.co.jp/3512.html
────────────────────────────────────
一途一心とはひたすら、ひたむきということである。
一つ事に命を懸けること、ともいえる。

あらゆる道、あらゆる事業を完成させる上で、
欠かすことのできない心的態度である。
物事の成就はこのコア(核)なくしてはあり得ない。

イエローハット創業者の鍵山秀三郎氏は、
ある時若い人たちから成功の秘訣を問われ、
「成功のコツは二つある」と答えて白板に、

「コツコツ」

――と板書されたという。

コツコツは一途一心と同義である。
その根底にあるのは無心である。
心に雑念妄念が入っては、人間、コツコツにはなれない。

人生の先達も一致して一途一心の大事さを説いている。

倫理研究所の創始者、丸山敏雄氏の言葉。

「己の一切を学問にささげ、事業に傾け、仕事に没頭してこそ、
 はじめて異常(ふしぎ)の働きができる。
 己の大きな向上、躍進、完成は己をむなしくすることである。
 身をささげることである。

 ここに必ず、真の幸福が添うのである」

森信三著『修身教授録』にある言葉。

「真の“誠”は何よりもまず
 己のつとめに打ち込むところから始まるといってよいでしょう。

 すなわち誠に至る出発点は、
 何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。
 総じて自己の務めに対して、
 自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。

 即ち、もうこれ以上は尽くしようがないというところを、
 なおもそこに不足を覚えて、
 さらに一段と自己を投げ出していく。
 これが真の誠への歩みというものでしょう」

その膨大な著作から小社が
三百六十六語を選んで編んだ『安岡正篤一日一言』。
その中にも教えを凝縮したような次の言葉がある。

「何ものにも真剣になれず、したがって、
 何事にも己を忘れることができない。
 満足することができない。楽しむことができない。

 常に不平を抱き、不満を持って、何か陰口を叩いたり、
 やけのようなことをいって、その日その日をいかにも雑然、
 漫然と暮らすということは、人間として一種の自殺行為です。
 社会にとっても非常に有害です。毒であります」


では、どういう生き方をすればよいのか。

「いかにすればいつまでも進歩向上していくことができるのか。
 第一に絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということです。
 純一無雑の工夫をする──
 近代的にいうと、全力を挙げて仕事に打ち込んでいく、
 ということです」

「人間に一番悪いのは雑駁とか軽薄とかいうこと(中略)。
 これがひどくなると混乱に陥ります。
 人間で申しますと自己分裂になるのです。
 そこで絶えず自分というものを
 何かに打ち込んでいくことが大切です」


最後に、最近、一読者から、この度の震災で
会社(女川町)も家(石巻市)も流されたが、

「毎月『致知』が届くのを楽しみにし、
 主人と『致知』を奪うように読み、『致知』に励まされ、
 とにかく前進あるのみとやっております」

というお便りをいただいた。

大きな困難の渦中で『致知』を支えに
一途一心に前に進んでおられる読者の方がいる。

本誌もまた、一途一心に精進の一道を歩みたい。
………………………………………………………………………………………………
 ご紹介した文章は、月刊『致知』2012年2月号に
 掲載されたものです。
  http://www.chichi.co.jp/3512.html

 月刊『致知(ちち)』は、昭和53年の創刊以来、
 33年間、いまの時代を生き抜くためのヒントを満載し、
 皆さまの人間力・仕事力アップに役立つ記事を
 お届けしております。

 まだ『致知』をお読みでない方は、
 ぜひこの創刊記念号より、定期購読をおすすめします。

 ●月刊『致知』とは?
 http://www.chichi.co.jp/outline.html

『致知』の広告が以下の新聞に掲載されます。ぜひご覧ください。

  ・3月5日(月)  日本経済新聞(全国)
            朝日新聞(全国)
          産経新聞(全国)
                  西日本新聞(九州)
                  中国新聞(広島・山口)

  ・3月6日(火)  沖縄タイムズ

  ・3月12日(月) 中日新聞(愛知・岐阜・三重・静岡など)
          東京新聞(東京・関東)

http:// 

 

10年前に中学校の教師がスキー事故で半身不随状態になり・・・。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 5日(月)10時29分7秒
返信・引用
  「命の授業」の腰塚勇人です

先週の土曜日は、私のケガからちょうど10年が経ち
その間に私を支えてくださった方への
感謝の会をさせていただきました

北は北海道から南は鹿児島まで
大勢の方が来てくださいました

会が始まる前からどこか
この方とこの方につながって欲しい・・・
そんなことを思ったり

今まで私を一番支え応援してくれた
全国にいる「夢を叶える宝地図」の仲間たちとの再会は
どこか同窓会みたいでもありました

そんな中、やっぱりすごいな~と思ったのは
私が紹介することもなく自然と引きつけあう人たちが
お互いに引きつけあっていたことであったり

この人の話はみんなに・・・
そう思っていた人の周りには
自然に人の輪ができていたんです

ほとんどの方がおそらく初対面
でも繋がっちゃうんです
繋がれちゃうんです

生きている方向が同じ方を向いて
まさしく類は友を呼ぶでした


父と母も来てくれて、また群馬から叔父・叔母も来てくれました
そんな中、こういう時に一番力になってくれるのが
やっぱり弟

何も打ち合わせをしたわけでもないのに
良く動いてくれました

弟の言った言葉がおもしろかったというか
印象的でした

「ここにいる人たちは俺と生きている世界が違う・・・」
「みんな兄貴の仲間だったり、友だちだろう」

「どう違うのよ?」と訊くと

「みんな心の底から笑ってるよなぁ」
「それでみんな楽しそうだし、熱いよな」
「話も上手い人多いよな」
「俺の周りにはこういう人たちいない」


弟の言葉になんだか嬉しくなりました
弟の友だちも、イイ奴等ばっかりなんです

ただそこに成長や学び、夢や幸せ、そして自分らしく
といった視点で今を生きているか?と訊かれたら
多少なりとも・・・かも知れません

でも彼自身「俺には関係ない」という物言いではないんです
そんな感性を持っていてくれた弟が嬉しいかったです
(私が知らないだけだったかも・・・ですね)

本当に私にとって成長できる刺激を与え続けてくれる
大切な仲間なんです

これからもずーっと一緒にいたい
いさせて欲しい・・・と願うばかりです

自分はどんな人間でありたいのか
そして誰とどのような環境で生きるのか

どのような人と付き合い、一緒に生きていく人は誰なのか
やっぱり大切です

だからこそ、自分磨きを大切にしたいです

感謝を込めて


<講演会のご感想から>━━━━━━

今日は素敵な講演ありがとうございました。
優しい腰ちゃんの声に聴き入り、あっ!!と言う間に時間が過ぎてしまいました。
思った事を言葉にして伝えると言う 当たり前の事を、私は数年前に教わりました。
震災前から普通が一番♪って思ってましたが…
震災以降 ますますそう思うようになりました。
そして今年の母の誕生日に初めて
「産んでくれてありがとう。母の子供で本当に幸せです。」
と言うことができました。
今の私があるのも母が見守り助けてくれたおかげ。
40過ぎて…やっと素直になれました。
今日…腰ちゃんの講演を聞いた○小の生徒には、
言葉にして伝える事の大切さが伝わったと思います。
今は素直に言えなくても…きっと大丈夫。
人を思いやる気持ち、支えて助けてくれる人の大切さや 有り難さがわかれば
優しい子に育つと信じて…子育て頑張って行きたいと思います。
うちの子は中1と小3。腰ちゃんの授業を聞くことが出来ませんでした。
機会があったら…来年も○○中学校も よろしくお願いします。
これからも お身体に気をつけて…命の授業頑張って下さい。
陰ながら応援してます。

(群馬県・O様)

http:// 

 

人間学誌月刊『致知』の宣伝です。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 4日(日)13時58分58秒
返信・引用
  人間力がなかなか高まらないのですが、少しでも高めたいと言う意欲は失わないように
したいものです。

(↓ここから本文です↓)

●明日5日(月)の新聞朝刊にご注目ください
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
─────────────────────────────────
人間力メルマガをいつもご愛読くださり、ありがとうございます。

本日は皆さまにお知らせです。

明日(月)発行の日経新聞、朝日新聞、産経新聞、西日本新聞、中国新聞に、
月刊『致知』の全面広告が出ます。
http://www.chichi.co.jp/3512.html

おかげさまで、人間学を探究し続けて33年。
多くの読者の皆様に支えられ、今日まで広まってきました。

今回の新聞には、『致知』に掲載された
「一途一心(いちずいっしん)」が全文掲載されます。

世の中が激しく揺れ動く時代、

「何のために生きるのか」

「いまをどう生きるのか」

といった心の指針をもつことができなければ
忙しさや不安感に流されるままの日々を送ってしまいかねません。

いまこそ問われるのは、一人ひとりの人間力───。

読者の皆様の人間力向上のお役に立てるよう、
これからも『致知』は前進し続けます。

明日の新聞朝刊をぜひご覧ください。
http://www.chichi.co.jp/3512.html

http:// 

 

[女人五徳]

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 3日(土)10時58分10秒
返信・引用
   女人に五徳というものがある。

 第一は「平素人と争競(そうきょう)せず」。
 武家社会で婦人に社交を戒めたことには深い意味がある。
 とかく無教養な婦人ほど社交に出ると
 他人と比較争競したがるからだ。
 人と争い競わぬというのは男女を問わず大切な徳である。

 第二に「苦難中怨言(えんげん)無し」。
 苦しみ悩みの中にあって怨(うら)み言を言わない。
 或(あ)る人が会社に辞表を出して帰って来た。
 妻に一言、「辞表を出したよ」と言うと、
 彼女は言下(げんか)に
「それじゃまたお好きな魚釣りができますね」と言ったという。
 これは嬉しい。かくあるのが本当の女性だ。

 第三は「飲食を節す」。
 これは美徳だ。
 牛飲馬食の女性ではいささか興が冷める。

 第四が「事を聞いて驚喜せず」。
 激情を露(あら)わにせずに、
 しっとり落着いているのがよい。

 第五は「よく尊敬す」。
 何事によらず尊敬することを知るというのは貴い徳だ。
 人間はこれあるによって進歩する。

    『安岡正篤一日一言』より(致知出版社刊)

http:// 

 

本の紹介です。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 3月 2日(金)09時12分17秒
返信・引用
  読んでみたい本です。

(↓ここから本文です↓)

本日ご紹介する新刊は『森信三の生き方信條』(寺田一清・著)です。
 → http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=953&category_cd

 本書は『修身教授録』の著者・森信三師の直弟子として27年間仕えた
 著者が、師の人生観から日常生活まで
 師に関する83ものテーマをまとめた一冊です。

 その生涯はもちろん、旅の心得3カ条や、
 ビールのつぎ方など多岐にわたって収められています。

       *     *

   ●森先生は、日常の実践箇条を決まって「3カ条」に
    まとめてくださっています。
    たとえば、「子供のしつけに関する3カ条」
    「現場再建の3カ条」のように、実践面において
    「3カ条」をご提起くださっています。
    また自分に課した次の「旅の心得3カ条」も見事なものです。

    (1)汽車は一等席に乗らぬこと
    (2)荷物は持ってもらわぬこと
    (3)車は校内に乗り入れぬこと

    先生はこうした実践3カ条を守り抜かれ、
    神戸大学定年退職後、年間200日に及ぶ
    旅の5年間を貫き通されました。
                         ―― 本文P103より
             *

   ●(1)ビールのラベルは大事にすること。
    (2)右手でビールの底を支えること。
    (3)左手を必ず添えること。

    (1)について具体的に述べますと、ビールのラベルは、
    常にお客様もしくは相手のほうに向けて立てること。
    つぐときも、ラベルを手で押さえたりしないこと。
    (2)右手のたなごころでビールの底を支えることによって安定し、
    つぎやすくなります。
    (3)左手をビールの背下面に添える所作は
    まことに美しいものがあります。

    「ビールのつぎ方」について、学者肌の森信三先生から
    教わったことを皆さまにお伝えしようというのがこの
    一文の本音でありますが、いかに森先生が
    日常の所作について万全の注意を払っておられたかは
    注目すべきことです。
                         ――本文P82より

            *

   ●先生は執筆にあたり、机上には一切の参考書は置かれず、
    大判特製(42字×28行)の原稿用紙に向かい、
    ひたすら書き続けられました。

     ただ机上には道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』
    一冊を置かれるのみでした。
    それはなぜかと言えば、高朗なリズム感を体したい
    という願いがあったからです。

          いつも
    「『正法眼蔵』の一章でも音吐朗々(おんとろうろう)と
    読むべきであって、解釈を優先すべきものではない」
    と仰言っていました。
                          ――本文P152より

       *     *

 本書から浮かび上がってくるのは、
 師のこれまでの著作からは伺い知ることのできない素顔。

 その他にも、どのような書を好み、
 どのような音楽を聴き、
 どのようなものを食していたのか
 など、師の常人とは一線を画した日常が綴られています。

 生涯を実践に徹した師らしく、
 日々の生活の中に哲学があり、
 師の生き方それ自体が多くの教えを伝えています。

 また、本書では森教学の「優先順位3原則」「仕事の黄金率」
 「現場再建の3原則」など、仕事力を高めるための
 具体的なポイントにも触れられています。


 「人生二度なし」
 を説き続け、在野の哲人とも称された
 師の生き方信條は、
 一歩抜きん出たい新社会人から、
 仕事の能率を上げたいビジネスマン、
 会社、組織を発展させたい経営者まで、
 仕事力を高めるための多くのヒントに溢れています。

 ぜひご自身の生き方・働き方のヒントを
 見出し、日常の中でお役立てください。

==================================
●ロングベストセラー『修身教授録』の著者、
 森信三師の教学と実践の記録

『森信三の生き方信條』 1,470円(税込) 寺田一清・著
→ http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=953&category_cd
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 ※こちらも好評です。
森信三先生の貴重なインタビュー映像を収録!
「森信三一問一答録DVD」
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日本人の凄い医者がいたものです。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 2月28日(火)19時12分56秒
返信・引用
  福島教授の活躍振りをかってTVで拝見したことがありました。
凄い先生がいるものだなと思ったものです。

(↓ここから本文↓)


本日は現在発行中の『致知』3月号に掲載され、
大きな反響を呼んでいる脳外科のスーパードクター、
福島孝徳氏と佐野公俊氏の記事より、特に心に残る言葉をご紹介します。
────────────────────────────────────
●福島孝徳氏(デューク大学教授)の言葉
────────────────────────────────────
 結局のところ、どんな職業でも成功するのに一番必要なのは、
 努力なんですよ。一に努力、二に努力、三に努力、すべて努力で、
 努力がもう九十%じゃないでしょうか。

 五回やって覚えられないなら十回、十回でダメなら
 二十回やりなさいというぐらい、努力が一番大事ですね。
………………………………………………………………………………………………
 私が考える名医・良医の条件は、
 一に技術、二に知識、三に判断力なんです。
 まず技術がなければダメで、その技術を
 上手く采配する知識もなければダメ。
 またその判断が正しいということ。
………………………………………………………………………………………………
 人は私のことを「神の手を持つ男」なんて言いますが、
 本当は神様に助けられて生きている男なんです。
 「神のように病気を治す男」ではなく、
 神様に祈りながら必死で病気と闘っている男なんですね。
………………………………………………………………………………………………
 物事にはこれで極めたと思っても、必ずその上がある。
 進歩は現状を否定するところから始まります。
 人生にもideal(最高)という状態はありません。

 だからこそ我われは常に改革、常に挑戦の気概を持ち、
 無限の前進にかけていかなければならないんじゃないですか。
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201203_pickup.html

────────────────────────────────────
●佐野公俊氏(総合新川橋病院副院長)の言葉
────────────────────────────────────
 世の中は常に少しずつ進歩していますから、
 その中でいかに最先端を走っていても、
 ある時点で止まると、ふと気づいた時には
 ずっと後ろになってしまっている。

 だから現状維持は言うまでもなく後退で、
 たとえ前進していても、世の中の流れと同じスピードでは停滞。
 世の中の流れよりも自分がさらに進んでいって、
 初めて前進と言えるのだと思います。
………………………………………………………………………………………………
 藤田の元総長である藤田啓介先生は
 「努力をする者にのみ神の啓示がある」とおっしゃいました。
 人は自分の生まれてきた使命を知るために、
 神の啓示を受ける。

 自分が信念を持って努力し続ける時、
 独創的な閃きが生まれるのかもしれません。
………………………………………………………………………………………………
 僕はきっと、神様が常に味方をしてくれるようなことを
 きちっとやっていれば、そんなふう(運が悪いよう)には
 ならないんじゃないかなと思うんですね。

 そういう意味では、病気には全身全霊で対処して、
 誠心誠意を持って患者さんに手を尽くす。
 弛まぬ前進を続ける。
 それが神様が見放さないでいてくれる
 最大のポイントじゃないでしょうか。
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201203_pickup.html

http:// 

 

「命の授業」腰塚勇人さんのメルマガです。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 2月28日(火)09時56分25秒
返信・引用
  「命の授業」の腰塚勇人です

先日、東北新幹線で盛岡まで行き
そこから車で秋田に入りました

家を出たときは雨
これはもしかして・・・

やっぱり大宮を過ぎた辺りから雪に変わりました
そこからはずーっと雪でした

車窓からの景色は辺り一面真っ白
聞こえるのは新幹線の車輪の音と
たまに通るトンネルの「ゴー」っていう音

窓の外は静かなんだろうな~
遠くをぼんやり見て
なんだか心落ち着く自分がいます

白ってやっぱりイイ
他になんの色もないからなおさら
素直になれました
正直になれました

そんなことを思っていられるのも
新幹線の中がぬくくて快適だから?

外に出ればそんなこと考える暇もなく
おそらく「寒い~」

外を見ながらこんな事を考えられる時間があるって
幸せなのだと思う

毎日動いて、たくさんの方とお会いして
幸せをいっぱい頂いているけど
たまには立ち止まって見つめ、感じ、味わう幸せも大切ですね
(新幹線は動いていますが)

今の時代、そっちの方が贅沢なのかも・・・

そう、立ち止まったときに見えるもの
立ち止まらないと見えないもの

忘れかけ、失いかけているものがあることを
私はケガの体験から気づかせていただきました

私の場合
本を読んでいるときもそんな感覚になります

今回の新刊
『感謝の授業』~ドリームメーカーたちからの贈り物~
⇒ http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569802273/koshizuka8810-22

一度、皆さんも人生立ち止まって振り返ってみませんか?
そこにある宝物、もう一度気づいてみませんか?

そんな気持ちからも書かせて頂きました

お読みくださった方
心から感謝いたします

もしよろしかったら
感想を私の「命の授業」講演事務局宛に頂けると嬉しいです
(このメールレターへの返信でもお送り頂けます)


これから先、何を大切に思い感じ
どう生きていきますか?


感謝をこめて

<HPをリニューアルしました>━━━━━━

『感謝の授業』~ドリームメーカーたちからの贈り物~
(腰塚勇人:著、PHP研究所:刊、1260円)
⇒ http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569802273/koshizuka8810-22
の発売に合わせて、このたび、

HPをリニューアルオープンしました!

腰塚勇人「命の授業」オフィシャルサイト
⇒ http://inochi-jyugyo.com/

私の活動や思いを知って頂き、
講演や著書などを通じて一人でも多くの方とご縁を頂きたい
一人でも多くの方に「ドリームメーカー」として、
「命の喜ぶ生き方」をして頂きたい

そんな願いをこめてリニューアルしました

よかったら、のぞいてみてください
お友達にもご紹介頂けたら嬉しいです

http:// 

 

今日2月25日は「菅原道真の日」です。

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 2月25日(土)18時02分38秒
返信・引用
  大宰府天満宮に祭られている菅原道真公の日です。

道真公のご生涯(太宰府天満宮)

http://www.dazaifutenmangu.or.jp/about/michizane

http:// 

 

「生きるとは命を燃やすこと」

 投稿者:青春一直線!  投稿日:2012年 2月21日(火)18時53分1秒
返信・引用 編集済
  そこに山があるから登るのではないようです。

(↓ここから本文↓)

本日は現在発行中の『致知』3月号より、
世界最高峰エベレストに、単独・無酸素登頂をめざす
29歳の登山家・栗城史多氏の記事をご紹介します。
────────────────────────────────────
「生きるとは命を燃やすこと」

 栗城史多(登山家)

『致知』2012年3月号
特集「常に前進」より
http://www.chichi.co.jp/feature/
────────────────────────────────────
【記者:8,000メートル峰は常に死と隣り合わせの世界だと思いますが、
    実際に死に直面されたことはありますか?】

人間の心と体はきちんと繋がっていますので、
山の中で危険なことがあっても
悪いことは一切考えないようにしています。

ただ一回だけ、これはどうしようもないということがありました。
2009年秋、世界第7位の高峰、
ヒマラヤのダウラギリを登頂し、下山していた時のことです。

登頂後は一刻も早く酸素の濃い7,500メートル以下まで
下りないと危険なので、夜中も下山を続けていました。
と、その時。

氷雪の急斜面でアイゼンがすべって、滑落してしまったんです。
どう足掻いても止まらず、どんどんスピードは加速していきます。
その上、その先には落差千メートルほどの断崖絶壁が待ち構えていました。

で、これはもう落ちるなと思った時に、
たまたま自分の体が何かに引っかかって止まった。

タルチョといって、登山の時に必ず使う
チベットの祈りの旗を誰かがそこに差していたんです。
それがあったおかげで、私は奇跡的に一命を取り留めました。
あの時は神様っているなと思いましたね。

【記者:しかし、それだけの危険を冒してまで、
    なぜ山に挑み続けるのでしょうか?】

やはり母の影響が大きいですね。
母は、私が17歳の時にがんで亡くなりました。
体中にがんが転移していく中、普通だったら
「辛い」「痛い」と、弱音を吐くところだと思うのに、
母はそういうことを一切口に出さなかった。

必死にがんと闘っている母の姿を見た時、
私は母から
「一所懸命生きなさい」
と言われているような気がしたんです。

その母のメッセージが私の中に強烈に残っていて、
いまもなお、自分を突き動かす原動力になっていると思います。

私は講演をしていて、聞かれるんです。
「死の危険を冒して登ることは怖くないんですか」
と。

しかし、私は決して死というものが悪いものだとは捉えていません。
終わりがあるからこそ、いまがあることに感謝し、
一所懸命生きることができると思うんです。

生きるとは、長く生きるかどうかではなく、
何かに一所懸命打ち込んで、
そこに向かって命を燃やしていくことだと思います。

たとえ90歳まで生きたとしても、夢も目標もなく、
何にもチャレンジしない人生はつまらない。

8,000メートル峰は無酸素ではずっと生きられません。
そこへは酸素ボンベを使って、
グループで登っていったほうが死のリスクは低くなりますが、
私はそれをやるかといったら絶対にやりません。

それは安全で、堅実であるがゆえに、
自分の力を100%出さなくても登れてしまいます。

自分の全力を出さないで登頂したとしても、
それは単なる記録であって、私にはあまり価値を感じられません。

大切なことは、登頂までの過程で、いかに自分の100%を超えた、
110%、120%の未知なる領域に辿り着けるかということです。

http:// 

 

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